はじめまして、マスターズブリューイング代表件醸造家の益谷尚豪と申します。
沼津出身の私は高校卒業とともに東京の某学校に進学しましたが、わずが半年で中退。職を転々としながら、大好きな釣りに関わる仕事を探し、20代の大半を釣りやアウトドアなどの雑誌編集プロダクションのスタッフとして働いていました。
しかし、釣りの取材に行くだけで釣りはしない生活。考えた結果、30歳を超えてから漁師になりました。鹿児島県の甑島で漁師を募集してるいう情報をつかみ、何度も下見を重ね、妻の快諾もあり、思いっきって島の漁師になったのです。
最初は定着網漁の乗組員。その後独立。自分の船で獲物を求めて東シナ海を右往左往。時にはカツヲを求めて1人っきりで何日も海上を漂ったり、無人島の避難港に泊まり込んで天候回復を待ったりと、自由な生活をエンジョイ。時化で海に出られない日は畑を耕し、自分たち家族が食べる程度の野菜は自給自足。晴天が続けば何日でも魚を追いかける生活。30代の私はやりたいことが全て出来て充実していました。このまま、生涯、島の漁民として生きていくと決めていました。
ところが、断腸の思いでこの生活に終止符を打つ時が訪れます。
釣りと料理を教えてくれた父は、私が小五の時に病に倒れ他界。私が社会人になって以来1人暮らしになっている母のことや、子供たちの教育のことなどなど、私が楽しいだけでは済まない問題があり、沼津へ帰ることになりました。
25年ぶりに戻ってきた沼津は、高校までいた頃とは違う街に変貌していました。あの頃は駅前の中心市街地には活気があり、老若男女が闊歩していて楽しげな雰囲気がありました。しかし、今は朝の通勤ラッシュ以外の時間帯は閑散としているのです。シャッターが閉じて空きテナントもチラホラ。
今までの経歴を生かして、漁師飯居酒屋を駅の周辺で…。少しでも沼津駅前活性化につながればと頑張りました。地元の方々に育てて頂くかたちで「さえ丸おじさんの店」は順調に成長してきました。
沼津にはすでにクラフトビールの店が4軒ありました。私は全ての店の客でもあります。ある日、とあるビール屋で飲んでいると、隣のカップルに話かけられました。「いいですね、沼津には何件もの醸造所あって。羨ましいです。」と。大都会からわざわざ田舎町にクラフトビールのハシゴをするために来てくれる人がいたんです。
私は港街ぬまづは魚の街、干物と海鮮丼ぐらいしかアピールできるものはないと勝手に決めつけていたのかも知れないと気付かされたのです。水産以外にもお茶、みかんもあるし、ビールだって名物になる可能性を秘めた素晴らしいアイテムなのだと。月島へもんじゃ焼きを食べに行く。鶴橋に焼き肉を。と言うノリで沼津へビールを…。クラフトビールという素晴らしいアイテムで沼津駅前に昔の賑わいを取り戻したいと。
思いたったらすぐに行動。私は金融機関と話し合い、実現可能な計画を立てて、クラフトビールの海へ乗り出すことにしたのです。
しかし、動き出した直後に立ちはだかったのがコロナでした。クラフトビールの初動で多少の赤字が出てたとしても、2店舗ある居酒屋で補填しながら運営できる予定でしたが、コロナの波で、あっと言う間に1店舗閉鎖に追い込まれました。それでも計画を前へ進めてゆき、設備を海外に発注するところまで漕ぎ着けました。その時の円相場は105円/ドルでしたが、支払い時には140円/ドル越えに。工場と店舗の建築費も設備設置費用も円安とウッドショックで予定してた価格をオーバーしているが、キャンセルできないので前へ前へと進んできたのが、現在の状況です。大ピンチです。
漁師の時に先輩漁師に言われました。「時化の海には出てはダメだ」と。
まさに、大時化の海にうっかり出てしまった漁師です。しかし、後ろには戻れない。少しでも美味しく楽しいビールを作ってみんなと一緒に幸せになりたいと考えています。ご支援よろしくお願いします。