
活動報告5
2023年9月23日 お彼岸中日
昨日は二代目(母)とお墓参りへ。初代あしたの父にもクラウドファンディングの経過の報告と今後の目標を伝えてきました。
今日は、22年前に76歳で他界した、修善寺麦わら細工には欠かせな人物「辻󠄀 晨吾」について少しお話します。
活動報告3で少し触れていますので、その続きから。なぜ、父が麦わら細工を引き継ぐことになったのか。
それは、多くの悲劇をもたらした第二次世界大戦のお話をしなければなりませ第二次世界という。
昭和元年生まれの父は戦時中は血気盛んな若者でありました。9人兄妹の上から3番目の長男。9人の中で男は父と1番末っ子。歳はかなり離れていました。
そんな父にもその当時の男性と同様に、容赦なく召集令状、いわゆる、赤紙は送られてきました。
そして、任務は「特攻」
生きて帰ることは叶わぬ飛行機乗りとして出征したのです。TOP画像には当時父が肌身離さず持っていた寄せ書き。
見送る側にも覚悟が滲んでいる寄せ書きは、見ているだけで辛くなります。皆さん達筆で読み取れない文章も多々ありますが、見送る側も死を受け入れ、死を勇気づけるような言葉を綴る。本心は…計り知れません。

父はこの寄せ書きを身につけ戦地に赴きました。
戦争の話は父自身は私には多くを語ってくれませんでした。
父 飛行機に乗ってたんだ。
私 えー飛行機運転できたの?!
すごーい!かっこいい!
父 …
私 どんな飛行機?どこまで行ったの?
と、子供頃は戦争の宿題や話題が出る度に聞いてましたが、多くは語ってくれませんでした。私が知ったのは大人になってから。周りの人から色々聞きました。
幸か不幸か。
幸に決まってる。今の時代ならそう言えるけど、当時は散ることの美徳というか、死してお国に報いる時代。
父は出撃したもののフィリピン沖で墜落。泳いでフィリピンに渡り一命を取り留め、終戦を迎えた。
時を同じくして、お隣の山本さんのご子息も戦地に赴いていたが、ご子息は帰らぬ人となっていました。
父は修善寺に戻る事ができた。
国鉄で働く時期もあり、その後、修善寺バナナ園を軌道にのせ、そんな中で子どもの頃から目にしていた美しい麦わら細工がこのまま絶えてしまうことを何とか食い止めたいという思いで、受け継ぐことを決意。ヤシの実細工や、様々な材料で色んな作品を作っていた父は、麦わら細工も手がけるようになったのです。
鳥取出身の職人さんから、修善寺生まれの父に麦わら細工のバトンが繋がった出来事です。
お彼岸の中日。
父、そして、山本さん、ご子息、先の人がいるから、今、私たちがこうしている。
先の人が残したものがあるから伝統、歴史となっていく。
時の積み重ねは、物も事も、さらに深みのある物にしていく。
私は昭和に生まれ、平成、令和を生き、この令和でも江戸時代から伝わる麦わら細工の技術の素晴らしさを誰よりも伝える事ができる最前線にいます。
最前線の私が声を大にして言いたい。
麦わら細工は本当に美しい!
素朴でありながら艶やかでぬくもりがある素晴らしい素材!
知らぬは損ですよ。
さぁ、今回は修善寺で麦わら細工のバトンが繋がれたお話をしました。これは、城崎温泉も長く伝統としている技術。さて、では、今度は東京はお江戸、日本橋からスタートする東海道五十三次の大森発祥の麦わら細工のバトンが何故修善寺に渡されたか。をお話しますね。
続きはまた。活動報告6で。
民藝麦わらの店 晨 三代目 辻󠄀 享子

辻󠄀 晨吾 作




