本社・掛川報徳館十二月常会報告
秦野と安居院庄七
二宮尊徳の会 地福進一
「現代語 安居院義道」出版と秦野視察
昭和二十八年に鷲山恭平氏出版の報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳の出版の企画に携わっていて、その一環として令和五年九月二十七日に秦野視察を実施致しました。
JAはだの宮永組合長に案内をお願いし、参加者は鷲山恭彦本社社長等4名で、有意義な視察になりました。
秦野視察のコースは、
1. 庄七の生家・神成家(旧朝田家)の墓域
2. 現在の神成家のお宅
3. 庄七が一村仕法を行っていた横曽根村の地域
4. 庄七の婿入先の旧磯屋跡
5. 庄七の墓のある妙相寺
安居院義道(庄七)の秦野での経歴
一七八九年相模国蓑毛村(秦野市)の蓑毛御師朝田家(後に神成家)の二男に生まれ、長じて曽屋村の穀物商・磯屋を営む安居院家に婿入りします。妻をヒサといい、前夫との間に少なくとも四人の子がいることから、庄七は中年になって婿入りし、それまでは父や兄と檀家廻りしていたと推測されています。
二宮先生に聴いた「元値商」を実践
庄七は天保十三年に桜町陣屋に二宮先生を訪ねます。桜町陣屋日記天保十三年七月二日に「相州十日市場磯屋庄七と申す者田蔵相頼り罷越候」とあります。二宮先生は幕臣登用を控えて面会できず、庄七は下働きを許され、門人達への説話を立聞きします。 「福山先生小伝」に「二宮先生は五、六十人の門人に報徳仕法を説明された。庄七は感服して聞いた。なかんずく『元値商いの法の如きよく了解する者はこれを行え』の話に大いに感じ、仕法組立も勉強し、二十日余りで郷里の秦野に帰った」とあります。庄七は自家で米の元値商を始め、商法は売って喜び、買って喜ぶ、双方共に喜ぶのが極意だと大悟します。この報徳の教えを世に広めようと伝道に出ます。
庄七の御師としての前半生の重要性
東京大学の戸石七生准教授は「安居院庄七と参詣講」の論文で「遠州の地域有力者のネットワークと庄七の参詣講の運動の双方が上手くかみあった結果、遠州の報徳運動は盛んになった」「庄七の報徳仕法普及運動も大山講を組織するノウハウが報徳社設立に応用された」「報徳仕法普及は檀家廻りのノウハウに負う所が大きい」と論述されています。
「横曽根村仮趣法帳」発掘の意義
「大日本報徳第四四号」に「相州大住郡北秦横曽根村仮趣法」に秦野の蓑毛近くの横曽根村(後に小蓑毛村)の村役人庄兵衛が庄七から聞き取った話が記録されています。そこに「二宮先生様の大名を承り善道の大意を蒙りたき義八ヶ年以前より心懸け」とあります。
庄七は桜町陣屋に無利息金を借りに行き、そこで初めて報徳を知ったとされてきました。同時代人の記録によればその八年前から二宮先生の大名を聞き及び、報徳の大意を聞きたいと念願していたのです。八年前というと天保五年です。庄七はどこで大名を聞いたのでしょう?私の推測ですが、神成家の檀家一覧(『開導記』)を相模国足柄上郡・下郡と駿河国駿東郡の村名地図と重ね合せると場所が浮かび上がります。金次郎の故郷栢山村に神成家の大山講があり、小田原仕法実施の村々の近くにも大山講があります。富田高慶は「安居は旧大山御師ナリト云。曾比・竹松ノ両村ノ御趣法御施行ノ頃、故先生村民一同エ御教誡被為在ルゝ所を障ノ外ニテ立聞シタル人物ニシテ、御趣法ハ其頃、筆記に被頼タルヲ幸ヒ写シ置、其御趣法ニ感シ駿遠地方に説諭シ廻ラレタル也」と「報徳史料 富田高慶先生との対話」(『富田高慶 報徳秘録』p.334)で言及しています。
また「横曽根村仕法」の経緯を熟読すると秦野は遠州報徳社の原点である事も分ります。
庄七逝去時持参の書物と結語
安居院庄七は七十五歳で遠江国長上郡小松村で逝去されました。報徳に骨の髄まで尽した尊い生涯でした。逝去時の書物に「西大井村・藤曲村仕法書」「御殿場村仕法書」があります。先生はこれら仕法書を大切に持参されたのです。
安居院先生の御師としての前半生の重要性と桜町陣屋に行く八年前から二宮先生に傾倒していた事実をご紹介しました。