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「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します

「報徳開拓者 安居院義道」は鷲山恭平氏が昭和28年(70年前)大日本報徳社から発行した本です。今回、「報徳の師父」シリーズ第3集として本書の現代語訳を出版するに当って支援を求めます。出版した本は支援者に返礼品とするとともに、報徳の師父シリーズを蔵書とする大学図書館、静岡県内公共図書館に寄贈します。

現在の支援総額

302,000

67%

目標金額は450,000円

支援者数

62

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2023/11/01に募集を開始し、 62人の支援により 302,000円の資金を集め、 2024/01/13に募集を終了しました

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「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します

現在の支援総額

302,000

67%達成

終了

目標金額450,000

支援者数62

このプロジェクトは、2023/11/01に募集を開始し、 62人の支援により 302,000円の資金を集め、 2024/01/13に募集を終了しました

「報徳開拓者 安居院義道」は鷲山恭平氏が昭和28年(70年前)大日本報徳社から発行した本です。今回、「報徳の師父」シリーズ第3集として本書の現代語訳を出版するに当って支援を求めます。出版した本は支援者に返礼品とするとともに、報徳の師父シリーズを蔵書とする大学図書館、静岡県内公共図書館に寄贈します。

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当初、2人で「二宮尊徳の会」で10年来聴衆にわかりやすく聞いて頂いている対話方式で、「農業余話と万人徳用鏡」の話のあと、演ずる予定でしたが、

手島さん(鈴木藤三郎の曽孫)が安居院庄七役として参加を快諾していただいたので、急遽、安居院庄七のセリフを増やしたシナリオを作りなおしました。


12月17日第10回報徳講座レジュメ 石田村仕法抜粋(修正版)

8 対話方式「駿州石田村回復方法の事(淡山論集第1編より摘載)」

   

(地福)駿河国の石田村は戸数31戸。静岡宿から南におよそ3キロ、南海岸から1.5キロ、土地は平坦で水田は多く、久能山東照宮の神領に属していました。

村民は農業に従事せず、借金が増加し、田畑の多くは、他村へ貸出し、収穫しても村民のものになりません。しかし村民はこれを憂えることもなく、「神領の地だから、借金が増えても政府が救助してくれるだろう」と、小作人は地主の年貢を滞納し、年々歳々怠納の負債が増加していました。地主は他村に住んでいて、これを責めても、村民は貧窮でどうしようもないと言い訳をするばかりでした。

 安政4年(1857年)、安居院先生は庵原郡(いはらぐん)鳥坂村にいました。

駿府の片羽(かたは)町の伏見忠七は、資産家で石田村に田地を所有し、早くから石田村の困難な状況を知っていました。また鳥坂村にも田を所有し、鳥坂村が安居院先生の仕法により、村民は農業に励み、借金は返済され、風俗が良くなることを知って、良法だと思いました。そこで忠七は番頭を石田村の庄屋石垣治兵衛の家に行かせました。石垣氏は「これはまた借金の督促に来たものであろう」と思って顔色に出ました。


番頭(樋口)「心配しなさんな。今日わたしが来たのは、決して借金の督促のためではない。とても良い方法がある。報徳という。その先生を安居院(あぐい)庄七という。

今、現に鳥坂村にいらっしゃる。この法に従うならば、数年たたずして村は回復しましょう。安居院先生に従って、その教えを聞いて、一村こぞって、これに従われよ。

これが主人の忠七が私を使いして、あなたに告げさせるゆえんです」。


石垣氏はこれを聞いて喜んで、詳しくそのいきさつを聞き、すぐに村内の重だった者を7名集めて相談したところ、みなとても喜んで、翌日すぐ鳥坂村に出かけました。

その時に安居院先生は、上座にありました。七人の者ははるか遠くから臨みました。

(樋口)「あのどてらを着ている年寄りが先生なのか。

私たちはだまされたのではないのか?」

先生は、すぐには面会を許されません。

先生(手島)「報徳のご仕法は容易に行うことはできない。

石田の面々は悔悟している様子がない。」


石田村の者は、その言葉にみんな眉をひそめて村に帰りました。

このようにして二回、三回して、ようやく面会を許されました。

先生(手島)「お前たちが、報徳の道を慕って、わが教えを聞きたいとするのは、賞賛すべきだ。しかし、報徳の道は容易の事業ではない。まずお前たちの日常の心掛けを聞こう。

 お前たちは今までに天道のために尽すところは、どれほどあるか?」

七人の者(樋口)(顔を見合わせて黙然)「・・・・・・」

先生(手島)「お前たちが答えることができないところを見ると、これまでに天道のために仕えるの道を尽くしたことが無いと見える。村が困窮するはもっともだ。」


七人の者は、ついに何も答えることができずに村に去りました。

翌日また往くと先生は、天道について教えました。

翌日また往くと、先生は人道について教えました。

毎日このようにして教えました。ついに18日を重ねて、ようやく報徳の大意をのべました。七人の者は、一日一回ごとに先生の説くところの意義があることに感銘し、深く感化されました。

安居院先生はいったいどんなことを説かれたのでしょうか?安居院先生が門弟・荒木由蔵に伝えるところを、手島さんに読んでいただきます。


(手島)二宮大先生が出生され、報徳の教えを立てられた。私たちがその理をうかがうに、まずその身を知らないで難渋困窮するために、家内が和合(わごう)しないで止むことが無い時は、種々の迷いとなる。親は慈悲の心がなく、子は孝行の心がなく、兄は愛の心がなく、弟は敬の心がなく、いずれも真(まこと)がない泥海である。

まず家を治めるのは、主人の心一つである。富貴であれば富貴のところが天命である。この富貴に随って譲り施すのが主人の道である。困窮であれば困窮のところが天命である。この困窮に随って勤めるのが主人の心一つである。困窮の道を行えば、困窮の憂いを免れる。もし免れ難いときは、財宝衣類諸道具まで売払い、この財宝をもって他を恵むよりほかにない。もともと蒔いておいた種の実りであるから、今改めるのに遠慮する事はない。元を知るということは、一に帰るということである。この一をもって勤めるときは、少しもけがれることがなく、また元のように富貴にいたる。これを道という。二宮先生は 梅の木は根も梅なれば種も梅 枝も葉も梅花も実も梅 と詠じられた。この歌を考えてみると、天地神明の大恩を知らず、その昔から万物の霊である人間である。天地に何ひとつ恩を返さないでいられようか。私たちにまで恩沢を下される有難さは言葉では述べ難い。これを知らないで私欲・身勝手の人情で天道の正理をあだに暮らし、始終助かっている大恩を思わず、種々の悪行がわざわいを招いてしまう。その罪を復さず、なおまた自分の不運と名付け、どれほど厚い神明の匙(さじ)加減を下されても、一心にもとづく事とは夢にも知らない。自分勝手の悪行だけで千里をひびかして、我意を張って罪に罪を重ね、足ることを思わないようになり、家の中は蜂の巣のようで、中に実はないのに隠しとげようと望んで、田を質入し高利の借金をして世渡りし、なおまた嘘に嘘をいって、借りた元金を返済しようとは少しも思わない。うわべは利口に言い並べても、天命はこれを隠すことはできない。

富貴貧賤、善悪邪正ともみんな自分の心の行うところである。天命に基いて自由自在の平等を心がけ、清く正浄潔白の道を渡る時には、人として愚かであっても、神明の憐みを蒙ることは疑いない。この故に子孫長久、富貴繁盛し、悪事が来ることなく、行うところ大小と限らず成就しないことがない」という誠に有難い言葉でした。


石田村の村民(地福)

「諸君は報徳神に参詣し福を得る方法を伝えられたと聞く。なぜこれを私たちに告げないのか。」

七人の代表者(樋口)「われらは諸君に隠すところはない。先生の言葉はこのとおりだ。実に感服した。この方法に従うならば、必ず村を再興することは疑いがない。

諸君、一村こぞって先生に来て下さるように願い出て、その教えに従おう。どうであろうか。」

村民は大変喜んで、名主石垣治兵衛(じへい)の言葉に従って安居院先生を石田村に招くことを決定しました。七人の者は鳥坂村に行って先生に「おいでいただきたい」と願い出て止みません。先生はその事情を察して、石田村に行くことを承諾しました。そこで七人の者は日時を決めて迎えに来ることを約束して、帰村しました。

約束の期日、七人の者が来た時刻が約束よりも遅くなりました。


先生(手島)「お前たちは、今日私を迎えるのに約束の時刻に遅れたのはどういうことか? 私は待つこと、久しい。

思うにお前たちは、帰村の上、村民の評議が変更する所があって遅刻したのであろう。このような状況で私を村に迎えても決して成功しないだろう。

これはきっと時機がまだ至らないからであろう。神が私を誡められること、このようである。私がもし往けば、必ず神意に逆らうことになろう。私が往こうと欲しても往くことはできない」


迎えに来た者たちは謝罪し、言葉を尽し、ようやく許されました。七人の者は先生に従って帰村し、先生を石垣家に招待しました。すぐに村民を集めて、日夜報徳の教えを聞いて仕法を求めます。先生は毎戸の家政を調査して借金返済の仕法の案を立てたものの、どの家も貧しく借金が積み重なって仕法を立てるべき所が無いようでした。先生は言われました。

(手島)(右を向いて)「お前は衣服や家屋を売払って負債を返済すべきだ。」

(左を向いて)「お前は子女を人に託して、自分は人の下僕となるべきだ。」

(正面を向いて)「お前の鍋・釜、お膳・お椀、お前の鋤や鍬は、皆債権者の恩沢によるものであるから、その不要のものは売って借金の返済の資本にし、必要なもののみを保存し、常に貸主の大恩を思って、謹(つつし)んで毀(こわ)してはいけない」


その仕法は、厳重で寛大な所が少しもありません。村民は非常に驚いて、妻や子で泣きだす者があり、子を背負って隣村に助けを求むる者があり、衣服を質入れして家を売却しようとする者もありました。村民の気持ちは挫折し、報徳社を脱しようと村内の境内に集まる者が過半数に達しました。村民は昼夜協議をこらし、不穏な状況になりました。石垣治兵衛は大変心配して、同志と共に力を尽くして、利害得失を説明して、報徳仕法が善法である理由を詳しく諭しました。

そこで村民はようやく納得して、一村を挙げてその教えに従って、その後、仕法を遵守するに至りました。そこで仕法帳を作成し、各債権者のもとに行って、年賦償還の承諾を求めました。その仕法とは、農業の余力をもって日掛縄索(ひがけ・なわない)の業を勤め、日夜怠らないでこれを積み立て、借金の返済にあてることに外なりません。また旧来の悪弊である凧(たこ)揚げ、雛祭りその他諸祝儀や飲酒の風習は一切これを廃して、年賀の礼は報徳社において一同でこれを行い、各々編んだ縄一房を持参することとし、また年中、毎朝、報徳社の社長が各戸を回って、その縄を集め一手にこれを売却して借金返済の元資とすることにありました。

その報徳仕法を、一村が真心をもって、少しの違納の疑いがないということを債権者たちは各々承諾しました。更に農業奨励のために土台金を寄付する者もあり、肥料を施与することがあり、無利足金に加入する者があり、借金の督促は全く止みました。一村皆その報徳仕法の有難さを喜び、村の人気は非常に進み、農業を奨励し、縄ないの仕法も怠ることなく、女、子供まで、幼児を背負って縄をなうようになりました。


十年で数千両の負債は残らず償還し、さらに十年で数千円の社金を積立てることができました。質に入れた土地を受け戻し、また買戻しを行い、後にはついに他村からの入作地は無いようになりました。


安居院先生は、石田村に在ること3年、報徳の教えをのべることは深く切実であり、石垣氏もよくその教えに従って、仕法を行うこと数十年が一日のようで、真心が堅固であることで社員は一致して事業をなし遂げ、村を再興し、豊かになることができました。(終わり)

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