2024/04/27 22:16

二回目:「レインボールームが立ち上がるまで」


「てつ」

このクラウドファンドのコンサルを請け負ったちゃんちき堂のてつが、レインボールーム代表のようこさんへのインタビューを行うこの企画の二回目。


今回はさらに壮絶なお話を聞かせていただくことになると思います。

同時に、レインボールームが始まる萌芽をつかまえられるんじゃないかと期待しながら、進めていきたいと思います。


さて、ようこさんが羽美ちゃんのうつを予見したところからでしたが、続けてお話していただけますか?


「ようこ」

はい。

うつ病のことですが、子供でもなるのかな。そんな事を毎日考えていました。

そして、私はこの時、毎日娘の発言を記録していました。

何か変だ。やっぱりこれは普通じゃないって感じていたから。

この時期、保育園からの受診は継続していたけれど、半月に1回程のペースだったので、次回の受診まで非常に長く感じていました。

私が出来る事は、お医者さんに正確な情報を伝える事だと思い、1日の流れ、会話、起きた事を記録。

そして待ちに待った受診日。3年生になった7月。

記録したノートをプリントアウトして、医師に渡し、医師が娘と話した後、看護師さんと娘を隣の部屋に行かせて、医師が私に言いました。

「お母さん、うみちゃんは発達障害による二次障害で鬱にもなってるし、このまま放っておいたらもっと大変な事になりますよ。今この場にベッドがあったら、即入院してもらう状況です。大変だとは思いますが仕事を休職できますか?少しの間でも1人で留守番させないで下さい。至急です。1人でいる時に、本当は死にたくないのに、自殺する事も考えられます。兄姉ではダメです。お父さんかお母さんじゃないと」

といわれました。(医師が話した事を診察直後にメモしたので、一語一句全て医師が話した言葉ではなく、私のメモです)


帰りの車内では、

(やっぱり鬱状態だったか!わかって良かった。たった、8才で鬱状態になる程苦しい思いをさせてごめんね。私の仕事、訪問を楽しみにしてくれている方にもう会えない、会社に迷惑をかけてしまう。)

という思いで涙が止まりませんでした。

でも、帰宅した時には

「メソメソしてる暇があるなら、もっともっと子供の心や、二次障害までしっかり学ぼう!私が絶対に娘を幸せにする!」

と言う気持ちになっていました。

医師から話を聞いた瞬間にも、一番最初は

「自分の知識不足、娘は私が必ず幸せにする!」

って思っていました。


「てつ」

羽美ちゃんの特性がわかった時もそうだったんですが、今回の話とは別にようこさんのパーソナリティってめっさ不思議ですよね。

切り替えが早いというか、合理的でポジティブなんだけど、普通って言いたくはないけど、ぼくだったらやってきたキャリアを失うことへの感情や、子どもの状態への不安とかっていう感情をうまくコントロールできなくて、しばらく動けなくなると思うんだけど。

いっつもようこさんはそうだよね。

「わかったよかった」

「じゃあ、手が打てる!」

ってなるものね。


「ようこ」

そうなんですよね。変なのかな?

でも、こういう性格でホントよかったとは思う。

もちろん、大変だし、苦しい日々ではあったけど、そこで止まらずにすんだっていう意味で。


だから、病院から帰宅し、すぐに職場に電話して、退職日を決めました。

学校にも電話し、学校に行く時には私が付き添う事を伝えましたが、担任は

「ごめんね。気づいてあげられなくて」

と泣いてくれました。


「てつ」

ちょっと話を挟んじゃうけど、学校っていう限界はあっても、そこにいる一人一人の関わってくれた先生たち、みんながこんなに親身になってくれるって、すごいことな気がする。仕事の範疇をこえているよね?


「ようこ」

そうかもしれない。羽美ちゃん、人にはすごく恵まれているんだと私も思います。

それでも、3年生の時には、図工だけ、給食だけ…などさらにピンポイントに絞り、不安もますます強くなっていたので、1分刻みでの行動になりました。

3時間目と給食と6時間目に行く時などは、2往復、3往復が必要だったけど、娘の疲労は限界で歩けないので、車での送迎になりました。

(例えば10時35分からの授業に参加するのに、他の児童に気付かれない、さらに教室に入るのに遅れない為に、10時30分に学校に到着し、33分に下駄箱、35分に教室…など)娘が決めて行くのですが、それですら泣いてパニックを起こし、


学校に到着してからも泣いて、吐いて、

「頑張ったのママ知ってるから帰ろう」

と声かけをしても、

「ダメなんだ!行かないと勉強がわからなくなる」

と、怒りまくり泣きまくり、駐車場から緊急でカウンセラーさんに電話した事もありました。

 

3年生の2学期が始まる時には学校に行くのも不安、行かなくて授業がわからなくなるのも不安、

「どっちも選べないから死にたくなる」

って。涙が出ちゃうと登校中の友達に見られたく無い。みんなが泣いている自分を見る。なんて話しをしながら「学校」が頭から離れない。


この頃には固定級(※2)に転校が望ましいと医者に教えて頂き、副校長も特例での年度途中の転校希望を行政にお願いしてくれたけど、叶わずでした。

行っても不安、行かなくても不安な毎日。

それでも、医師、学校の先生、カウンセラーさん、みんなが、「無理して行かなくて良いんだよ」というような言葉を言ってくれて、この言葉は私が同じ事を言うのとは、娘の安心感が違いました。


この頃、私は娘の気持ちが大丈夫そうな時。例えば、保健室に娘が登校した僅かな時間に、市役所に行き娘の居場所を探していました。

そこで、都内のフリースクール以外、娘が行ける場所など一つもない事を知り、愕然としました。

都内まで今の娘のメンタルでは通えない。医師も同じ事を言いました。


学校に行けない子には、本当に何処にも行き場所がないんだ…でも、娘は私と2人だけの生活を望んでいない。

工作やご飯つくりをしても、親だけから認められるのではなく、この子は社会から認められる事を求めているんだと感じていたのです。


「無いなら作るしかない!」と言う事が頭をよぎりましたが、まずは、娘の状態がもう少し良くならないと、何も始める事はできない感じでした。


4年生からは固定級に転校しました。

娘は転校前の学校では、男女問わずお友達が帰りの支度を手伝ってくれたり、気にかけてくれたりした環境だったので本当に苦しい判断でしたが、娘自身が

「ママ、固定級行く」

と決めました。友達と遊ぶ事が何より楽しい子供が、大好きなお友達と別れる決断をする程毎日が苦しかったんです。

固定級に転校すると学校に遅れてくる子、早退する子、お休みしている子も沢山居て、娘は自分だけじゃないんだと思えたようでした。

先生方も娘の為に相当な配慮をしてくれましたが、まだまだ娘には、周りが予想できない様な不安がありました。

それでも、当たり前に絶対に学校に行かなきゃいけない、勉強しなきゃいけない雰囲気に感じなかった固定級では、少しずつ参加できる時間も増えてきました。

私の付き添いがなくても居られる時間が、1〜3時間ありました。  


毎日担任は電話をくれ、

「明日の○時間目は、校庭で体育をしている子供達がいるので、駐車場まで迎えに行きます」

や、

「移動教室の事前学習はこんな物をやりますが、羽美ちゃんには○○を○○教室でやっても大丈夫です。みんなの前で言えない場合には、○○のタイミングで私が聞きに行きます」とかなり細かい部分まで打ち合わせを1時間はしていました。


※2.固定学級とは 教育活動全般において特別な支援を必要とする児童・生徒を対象として設置される学級。 支援の程度に従って子ども一人一人に応じた教育を行います。1クラス8人程で編成されています。


しかし、4年生の冬休み前から調子が悪くなり、娘は人生で初めて胃腸炎になり、嘔吐を繰り返した事が怖くて、給食だけはどんな日でも行けていたくらい食べる事が楽しみな娘が、学校の給食に行けなくなりました。

みんなの前で吐いたらどうしようと言う不安です。


そこからがまた、想像もできないくらい大変な日々の始まりでした。

学校もほとんど行けず、真冬でも家中の窓を開けないと眠れない。

トイレ、リビング、寝室、全ての窓です。

食事をとる時には私以外の家族が入ることがダメ。

食べる事へのタイミングや環境を整える事がかなり大変でした。

この時期にはどこにも出かけられなくなりました。

「気持ち悪い、怖い」という気持ちが強く、たまに行けたカウンセリングさえ、エレベーターの匂いが無理、廊下や待合室の匂いが無理。

私が早く歩くのも気持ち悪くなる、娘より遅く歩くのも気持ち悪くなる。

娘が、

「カウンセラーさんに気持ち悪くなる事を話して欲しい」

と言われたので、話すと

「吐くって言葉を使わないで!気持ちわるくなるから」

と怒鳴られ、カウンセラーさんが、あんなに怒りの溢れたうみさんを初めてみましたとビックリした程でした。


ママがいない時に吐いたら死んでしまうかも知れないと言う恐怖心から私と1分も離れられない日々。


緊急受診しようと話しても、車に乗っている時に吐いたら怖いと行けず。

嘔吐恐怖の不安が強くなる事で全ての不安が強くなり、過敏性も強くなりました。2.3年生の時に発言した言葉と同じように

「なんで私は普通じゃないの。普通に小学校に通って、みんなと普通に遊びたい、普通に中学に行って、普通に高校に通いたい、なんで私はそれが出来ないの。」

と、泣いて泣いて毎日なだめるのが大変でした。

可哀想で毎日涙を堪える事に必死でした。

この時期、学校がどうとか、友達と遊んだと言うような記録が何処にもなく、恐らく私も記録が書けない程大変な生活だったんだと思います。


でも、そんな毎日の中で未来への変化も小さく生まれてきていました。

脳の特性による感じ方、捉え方、または苦手な部分と、元々の性格、環境が相まって、娘は基本的に不安が多い。

環境が合わない事により、2年生から不安症を発症していました(不安障害とは、日常生活に支障が出るほど強い不安や恐怖を感じてしまうことの総称です。)。

そんな生活の中で、通級で教えてもらった認知行動療法(考え方を柔軟にしたり、行動を変えたりすることによって、辛い気持ちを和らげること)の本を買って、娘と読むようになりました。


一番酷かったこの時は、さらに種類を増やし、どれが娘に合うのか、すがる想いで読んでいたと思います。

本を読んでは生活の中で試して、一日に何度も起こす恐怖から来るパニックの度に試してみて、寝る前に2人で復習する。

それは高校生になった今でも何かあればその不安に対してどうするか、今の娘の年齢にあった対策をやってみます。

その結果、今ではだいぶ。。。そこに私が居なくても、一人で落ち着けたり、不安になった時に、私と一緒に繰り返した思考を変えてみる、行動を変えてみる事をして、乗り越えられる事が増えてきました。


さて、この状態が5年生に入る頃まで続きましたが、3月くらいには、月に1日2日、近所の友だちと2.3時間遊べたり、家族で近場のイベントや動物園には行ける様になってきて、外に出られる事にホッとしていました。

2月末に、

「娘が2時間程友だちと近所で遊べて、久しぶりに娘と離れて一人の時間が過ごせた」

という私の記録がありました。

一緒に歩んできた認知行動療法などがようやく活きてきた時期だったのかもしれません。


5年生になると大好きな学年主任が個別対応してくれる時間には、楽しみに学校に行けるようになりました。

学校に行く日数が減った事で、だんだん快くなっている感じがします。

月に2.3日時間を決めて。それが娘には良かったんです。

行事なども、見学だけでも良い、無理ならお休みでも良いと、学校側が協力的でありながら、娘に負担をかけない声かけをしてくれ、基本的に全て私の付き添いですが、時々現地で私がいなくても大丈夫な事もあったり。


家での生活は、娘がやってみたいお菓子作りや、ご飯つくりなんかも沢山しました。

私の友人関係のBBQや地域のイベント、町内会のイベント参加、近所の友人達と遊べる事も少しづつ増えてきました。

一緒に食べる事は難しかったり、何かと細かい制限や環境調整は必要でしたが、暗黒時代をぬけてきていたのです。

犬の散歩も毎日行ける様になり、散歩の最中に友達に会えたら少し遊ぶ様な毎日。


元気になってくると、また家族以外に認められたいという気持ちも大きくなり、自分が作った工作を友達に見せたい、作ったお菓子をあげたい気持ちも強くなりました。


6年生でも学年主任の上手な対応により、学校に通う時間は楽しんで通えるようになっていきました。


「てつ」

いや、もう、ちょっと表現や感想にあてる言葉がまったく浮かばないので、そのまま結論だけ。

これだけの時間と体験を経てきたこと。その中でも希望となるような可能性=認知行動療法とかに出会い、実践してきた体験。

これがレインボールームの立上につながっていったんだってすごい思います。

では、次回はいよいよ、レインボールームの立上の話をお願いします。