4月30日まで実施したクラウドファンドに協力してきたちゃんちき堂のてつと言います。4月30日まで実施した移転費用捻出のためのクラウドファンドでは、その拡散、そして支援のためにたくさんのみなさんのお力をお借りすることになりました。おかげで、無事に1st goalを達成し、レインボールームは新しい場所でのスタート切っています。先日、お邪魔した時には、そこでフリマが開催されており、部屋のあちこちには子ども達が作った作品が並べられていて、そこに次々と来場者があり。無事に活動が継続されていることを実感して帰ってきました。このレインボールームに月次支援できる仕組みがようやく完成しましたので、お知らせとなります。詳しくはこちらhttps://syncable.biz/associate/rainbowroomSyncableという非営利団体向けの寄付金集めのプラットフォームを利用して、月々1,000円~10,000円の支援を行うことができる仕組みとなっています。場合によっては、Syncableへの手数料を寄付者側が支払うことによって、全額を寄付することもできます。クラウドファンド中にも何度か書いてきましたが、フリースクールの置かれた環境はまだまだ厳しいままデス。理想な形を書き進めていけば、フリースクールに通いたいと望む子ども達、そしてご家族が必要なだけ通わせることができることだと思います。しかし、現実には義務教育の学校法人ではないフリースクールは、毎回、どうしても月謝に頼らざる負えません。精神的に不安定な子どもを抱える家族の中には、その子を抱え一人で奮闘している方も多くいます。子ども達を通わすことができれば、親御さんは働きに出て、給与だったり売上だったりを上げて生活をしていくことができる。しかし、実際には毎日通わせることができないために、働くことがままならない。そういったマイナスのスパイラルに陥っていることも多いのが現状です。そうした現状に対し、東京都からの補助が始まりました。今までよりも負担なく通わせることができるようになりましたが、それでも、まだ理想の状態とはいえないのデス。さらに受け入れるフリースクール側も問題を抱えています。レインボールームでも、今、通っているすべての子ども達が希望通りに通う状況を作るためにはキャパが不足しています。義務教育の学校に通える子ども達と違い、レインボールームに通い始めた子ども達、そして調子を崩した子ども達、要注意の子ども達には専属でスタッフがついて見守る必要があります。慣れてきて、みんなと一緒に過ごせる状況になったとしても、5人の子ども達に3人のスタッフがついて、見守り、そして関わっていくことが必要だそうです。そのスタッフたちにも経験と継続的な学習が求められ、一人ひとりがプロフェッショナルであることを求められます。しかし、多くのボランティアスタッフに支えられ、中心のメンバーも決して満足な対価を得ているわけではありません。フリースクールの運営は、その中心の運営側とそれを助けるスタッフの多大な善意と使命感に頼って運営されているからこそ、キャパの拡大に大きな壁があります。こちらも東京都と青梅市からの支援が10月から始まるそうです。今までに比べれば格段の進歩が見込まれる。。。けれど、それは理想へ向かっての第一歩といえる状況です。この状況に対する支援の輪を広げていく必要があるのデス。クラウドファンドでご協力をいただけた通り、レインボールームをはじめとした多くのフリースクール。そしてそこに居場所を求める子ども達への支援の輪が広く、そしてその意思を持つ方が無理ない範囲で支援することにより、彼ら、彼女たちの環境。そして、関わる大人たちの環境を改善することができます。社会課題は、フリースクールだけに関わるものではありません。もっと、直接的に命の危険にさらされた子ども達がいることもぼく達は知っています。ガザで行われている無差別な暴力のように。この国のあちこちにも復興の途上の場所があります。未だ仮設住宅に入ることもできず、水さえ十分に得ることができない環境で避難を続ける方がいます。格差の拡大を埋める努力も行われています。すべての人がすべての社会課題に真摯に向き合うことはできません。もちろんのことデス。多くの社会課題の中で、少しだけでも余裕のある誰かが、その1つにできる範囲で向き合い続けることで、解決されることがあるのかもしれません。少しだけ、進行を遅らせることができるのかもしれません。誰かの哀しみを少しだけ止めることができるのかもしれません。その1つとして、レインボールームの活動にご興味をもっていただけたら。。。そう願っていこの仕組みをスタートさせていただきます。
昨日でクラウドファンドを無事に終えることができました。ページビューで約10,000回。支援者みなさまの総計は80人!合計金額は1,095,000円となりました。また、同時に設置した募金箱への支援が31,648円。振り込んでいただいたり、直接ご支援いただいた金額が330,000円。総合計で1,456,648円というたくさんのご支援をいただけました。ここまでのご支援をいただけたことに、本当に感謝を伝えたい!本当に本当にありがとうございます。また、情報の拡散にご協力いただいたみなさま。チラシを置いていただいた店舗のみなさま。そして、記事として取り上げてくださった読売新聞さん、東京新聞さん、西多摩新聞さん、西の風新聞さんにも心から感謝しています。おかげさまで引っ越しも無事に終わり、レインボールームの活動は途切れることなく続けさせていただけています。また、いただいたご支援から、さらに子ども達が過ごしやすい環境へのリフォームや備品の購入をしていきたいと思っています。本日より、お返しの品の準備にも入っていきたいと思っています。子ども達の作品など、少しお時間をいただくことになりますが、7月までにはお手元にお届けできるようみんなで頑張っていきます。お手元にお届けまで、もう少々おまちいただけたらと思います。また、当面の壁である「引っ越し」をみなさまのお力でクリアすることができましたが、レインボールームはまだまだ課題を抱えているのが現状です。1つには通わせたい子ども達に対して、キャパが小さいということ。キャパが小さいから、新しい子ども達を受け入れることが難しく。キャパが小さいから、通う回数を制限してもらわないといけない。キャパを広げるために必要なのはスタッフの育成のための設備と、育てる私たちの時間的余裕と、そしてボランティアで手伝っていただいているスタッフの方々への経済的支援です。もう1つは通わせる側の親御さんへの支援。毎日通わせることができれば、その時間で働くことができるかもしれない。しかし、月謝制の現状では、家庭の経済状況によってその回数は制限されてしまいます。それはとても悪いスパイラルなのだと感じています。通わせられないから、働けない。通わすことができれば、働くことへの扉が開く。この2つの問題をクリアするためには、毎日の活動費用を月謝制以外の形でカバーしていくく必要があります。1つには行政からの支援。こちらは少しずつ少しずつ動き出しています。そして、もう1つは、引き続きちゃんちき堂さんで準備を進めていただいているサブスクシステムによる月次の支援。仕組みが完成次第、またご連絡させていただきたいとおもっております。もし、可能でしたら、ご支援を検討していただけた本当にありがたいです。また、拡散にも協力いただけたら。。。しかし、まず、レインボールームの活動を継続できることになったことに。そのためのみなさまからの暖かい励ましとご支援に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございます!
「てつ」このクラウドファンドのコンサルを請け負ったちゃんちき堂のてつが、レインボールーム代表のようこさんへのインタビューを行うこの企画の三回目。前回の壮絶な暗黒時代を経て、遂にレインボールームの立上の話にたどり着きました。聞くだけでも正直つらくなってくる。。。これを読んでくださる方も同じ思いなんじゃないかと思います。もちろん、ようこさんと羽美ちゃんの体験してきた「きつさ」に比べたらなんてこともないにしても。でも、ここまでを共有することができたら、この先の意味をぼくらも捉えられるんじゃないかと思っていて、いよいよレインボールームの立上にいたるお話、ようこさんお願いします。「ようこ」はい。少しずつ娘が自立に向かい、自分の時間を作ることができた私はレインボー立ち上げの準備に入ります。具体的には、夜中まで本を読んだり、研修もコロナ禍でオンラインになった事もあり、今まで受けに行けなかったお医者さんやカウンセラーさん等のオンライン研修を毎週予約して、多い月では、10日程研修を受けました。娘も付き添いで、(時には会場外で主人と待っていてもらい)オフラインの研修を受ける。楽しくて仕方ないですし、本を読める時間ができた事もありがたい。(研修は今でも積極的に参加しています)感覚過敏、視覚から受ける影響なども勉強し、色合いも考えて、自己資金で出来る限りの配慮をした部屋を作りました。一人では社会ではない、3人以上で社会になる。当時学んだ事を取り入れ、でも10人では人数が多すぎて繊細さん、敏感な子供達には厳しいだろうと言う事で、一度に3〜5名程度の支援を始めました。もちろん、個別支援も必要だし、慣れてきた子供達の次のステップとして10名程度の集団支援を一か月の中で、子供が選択してできるカリキュラムを作りました。娘は思春期に入っていましたが、まだ私が居ないのは不安。でもママにいてもらいたくない、と言う気持ちの間で揺れていました。レインボールームでお菓子作りやご飯作りをした際には、楽しくて一緒に食べる事ができる様になりました。「吐いてしまわないか不安だけど、でもみんなと一緒に食べたい」そんな気持ちで毎回挑戦していました。異年齢活動で5才くらい下の女子が沢山レインボーに来てくれ、娘は「この子の前ではしっかりしないといけない、こんなに小さい子がこんなに凄い作品作れるんだ!ママと離れて居られるんだ…自分も頑張らないと」と言う想いでいました。娘からしたら、可愛くてたまらない年下女子の前で、良いお姉ちゃんでいたかったんです。これが、ちょうどいいくらいの、娘の「頑張る気持ち」を後押ししてくれていたんだと思います。また、同年代女子達と、他愛もない話をする時間も楽しく、みんなそれぞれ大変な事がある事を知ったり、自分はこうしてきたけど、違う方法もあるのか…と、つまり自己理解も進んだと思います。 「てつ」これ、まさに今回の最初にようこさんが言っていた3人以上で社会になるっていう話の体現ですよね。そして、思春期に入って、お母さんから少し離れたい。社会参加していきたい。その中で自分の役割や居場所を得たいっていう自然な欲求がいい結果につながったってことなのかしらん?「ようこ」本当にそうだと思います。だから、ここからぶつかる壁にも、1つ1つ挑戦していくことができたんだと思います。もちろん、傷ついたら帰ってこれる「安心できる場所」ができつつあったからですけれど。だんだん元気になった娘は、中学生になり、学校に行ってみるといいましたが、そこで「支援級は差別されている」と感じる壁にぶつかりました。支援級は通常級の子と廊下で話してはいけないと言う決まりが当時あったのです。仲の良い、良かった、転校前のクラスメイト達がいるのに、廊下で姿が見えても話してはいけない(今はそのような事は解消されたそうです)と言う、あまりに悲しい出来事に、傷つきました。でも、レインボーに行けばスタッフは上手く話を聞いてくれる、同じ気持ちを経験した子供達がいる。自分の発言は絶対に否定されないし、自分は一人じゃないと思える。「私は私のままでいいんだと思える」と言い、レインボーに継続して通いました。少しずつ嘔吐に対する恐怖心も減り、レインボーで私は認められている、自分らしく居られる、そう思い始めたように私は感じていました。 昔は、自分だけだと思っていたのに、沢山同じ想いをしている子供がいる事を知り、レインボーに関わる、子供、親御さん、地域の人、ボランティアさん、スタッフ、市議会議員さん、都議会議員さん、みんなが優しくて、娘は「スタッフ、レインボーの子供、パパさんママさん、ボランティアさん達みんな優しいね!私を学校に行っているいないで見ない。自分を一人の人間として、話を聞いてくれる」と言い、「ママ!産んでくれてありがとう!生まれ変わってもまた私に生まれたい」などと発言するようになったんです。この文章を書いていたら、スタッフのあいさんからこんなメッセージをもらいました。「周りの人が理解して環境を整えること、自己理解すること、ちょうどいいチャレンジを繰り返すこと(初期は特に成功体験を繰り返すこと)、それと社会経験なんだけど、社会経験だけはオヤコでできないから作りたいってよーこさんはいつも言ってますよね。私もそう思います。」本当にこの言葉通りで、人間は心底社会的な動物で、娘のように今の社会に参加しずらい特性を持っていたとしても、社会参加の欲求をかなえていくことは自立そのものにつながっています。でも、特性によってチャレンジできる階段の大きさは違います。彼、彼女の中でのチャレンジが失敗ばかりだったら、それは挫折の経験となり、二次障害を引き起こしてしまい、悪いスパイラルに入っていってしまう。彼、彼女が挑戦しがいのある階段を作ること。見守り、時には手を貸すこと。登れないことを責めないこと。それを親子関係だけで実現することは不可能なんです。親はすべての特性のスペシャリストじゃないんだから。そして、親子関係は社会とはいえないのだから。だから、レインボールームのような場所が必要なんだと、私はこの子と歩んできた体験の中で思い知ったんです。レインボールームのように専門性があるスタッフと共に。同じ境遇の子ども達と一緒に。生活し、体験する場所が、当時の私たちにあったら!って。普通に学校に通える子ども達と同じように、レインボールームに通う子ども達にもたくさんの可能性があるんです。二次障害に苦しみ、親子で絶望し続ける必要なんてないんです。肯定され、居場所を作り、自分のペースで一歩一歩、自分の生を生きる。レインボールームはそのための場所でありたいと、そう願っています。「てつ」本当によく自分の中で理解したかは自信がないです。同じ体験をしてきたわけではないから。そして、なぜ、ようこさんだけがレインボールームを立ち上げることができたのか。この、ようこさんの壮絶なポジティブさっていうのはどこから生まれてくるのか。そんな疑問というか唖然というか、はぼくの中に残っています。同時に、ようこさんと羽美ちゃんとの一歩一歩。その体験が原型となって、今のレインボールームがあることはよくわかりました。クラファンはもうすぐ終了しますが、ぼくもできるだけのことをやろうと思います。今日は本当にありがとうございました。「ようこ」ありがとうございました。
二回目:「レインボールームが立ち上がるまで」「てつ」このクラウドファンドのコンサルを請け負ったちゃんちき堂のてつが、レインボールーム代表のようこさんへのインタビューを行うこの企画の二回目。今回はさらに壮絶なお話を聞かせていただくことになると思います。同時に、レインボールームが始まる萌芽をつかまえられるんじゃないかと期待しながら、進めていきたいと思います。さて、ようこさんが羽美ちゃんのうつを予見したところからでしたが、続けてお話していただけますか?「ようこ」はい。うつ病のことですが、子供でもなるのかな。そんな事を毎日考えていました。そして、私はこの時、毎日娘の発言を記録していました。何か変だ。やっぱりこれは普通じゃないって感じていたから。この時期、保育園からの受診は継続していたけれど、半月に1回程のペースだったので、次回の受診まで非常に長く感じていました。私が出来る事は、お医者さんに正確な情報を伝える事だと思い、1日の流れ、会話、起きた事を記録。そして待ちに待った受診日。3年生になった7月。記録したノートをプリントアウトして、医師に渡し、医師が娘と話した後、看護師さんと娘を隣の部屋に行かせて、医師が私に言いました。「お母さん、うみちゃんは発達障害による二次障害で鬱にもなってるし、このまま放っておいたらもっと大変な事になりますよ。今この場にベッドがあったら、即入院してもらう状況です。大変だとは思いますが仕事を休職できますか?少しの間でも1人で留守番させないで下さい。至急です。1人でいる時に、本当は死にたくないのに、自殺する事も考えられます。兄姉ではダメです。お父さんかお母さんじゃないと」といわれました。(医師が話した事を診察直後にメモしたので、一語一句全て医師が話した言葉ではなく、私のメモです)帰りの車内では、(やっぱり鬱状態だったか!わかって良かった。たった、8才で鬱状態になる程苦しい思いをさせてごめんね。私の仕事、訪問を楽しみにしてくれている方にもう会えない、会社に迷惑をかけてしまう。)という思いで涙が止まりませんでした。でも、帰宅した時には「メソメソしてる暇があるなら、もっともっと子供の心や、二次障害までしっかり学ぼう!私が絶対に娘を幸せにする!」と言う気持ちになっていました。医師から話を聞いた瞬間にも、一番最初は「自分の知識不足、娘は私が必ず幸せにする!」って思っていました。「てつ」羽美ちゃんの特性がわかった時もそうだったんですが、今回の話とは別にようこさんのパーソナリティってめっさ不思議ですよね。切り替えが早いというか、合理的でポジティブなんだけど、普通って言いたくはないけど、ぼくだったらやってきたキャリアを失うことへの感情や、子どもの状態への不安とかっていう感情をうまくコントロールできなくて、しばらく動けなくなると思うんだけど。いっつもようこさんはそうだよね。「わかったよかった」「じゃあ、手が打てる!」ってなるものね。「ようこ」そうなんですよね。変なのかな?でも、こういう性格でホントよかったとは思う。もちろん、大変だし、苦しい日々ではあったけど、そこで止まらずにすんだっていう意味で。だから、病院から帰宅し、すぐに職場に電話して、退職日を決めました。学校にも電話し、学校に行く時には私が付き添う事を伝えましたが、担任は「ごめんね。気づいてあげられなくて」と泣いてくれました。「てつ」ちょっと話を挟んじゃうけど、学校っていう限界はあっても、そこにいる一人一人の関わってくれた先生たち、みんながこんなに親身になってくれるって、すごいことな気がする。仕事の範疇をこえているよね?「ようこ」そうかもしれない。羽美ちゃん、人にはすごく恵まれているんだと私も思います。それでも、3年生の時には、図工だけ、給食だけ…などさらにピンポイントに絞り、不安もますます強くなっていたので、1分刻みでの行動になりました。3時間目と給食と6時間目に行く時などは、2往復、3往復が必要だったけど、娘の疲労は限界で歩けないので、車での送迎になりました。(例えば10時35分からの授業に参加するのに、他の児童に気付かれない、さらに教室に入るのに遅れない為に、10時30分に学校に到着し、33分に下駄箱、35分に教室…など)娘が決めて行くのですが、それですら泣いてパニックを起こし、学校に到着してからも泣いて、吐いて、「頑張ったのママ知ってるから帰ろう」と声かけをしても、「ダメなんだ!行かないと勉強がわからなくなる」と、怒りまくり泣きまくり、駐車場から緊急でカウンセラーさんに電話した事もありました。 3年生の2学期が始まる時には学校に行くのも不安、行かなくて授業がわからなくなるのも不安、「どっちも選べないから死にたくなる」って。涙が出ちゃうと登校中の友達に見られたく無い。みんなが泣いている自分を見る。なんて話しをしながら「学校」が頭から離れない。この頃には固定級(※2)に転校が望ましいと医者に教えて頂き、副校長も特例での年度途中の転校希望を行政にお願いしてくれたけど、叶わずでした。行っても不安、行かなくても不安な毎日。それでも、医師、学校の先生、カウンセラーさん、みんなが、「無理して行かなくて良いんだよ」というような言葉を言ってくれて、この言葉は私が同じ事を言うのとは、娘の安心感が違いました。この頃、私は娘の気持ちが大丈夫そうな時。例えば、保健室に娘が登校した僅かな時間に、市役所に行き娘の居場所を探していました。そこで、都内のフリースクール以外、娘が行ける場所など一つもない事を知り、愕然としました。都内まで今の娘のメンタルでは通えない。医師も同じ事を言いました。学校に行けない子には、本当に何処にも行き場所がないんだ…でも、娘は私と2人だけの生活を望んでいない。工作やご飯つくりをしても、親だけから認められるのではなく、この子は社会から認められる事を求めているんだと感じていたのです。「無いなら作るしかない!」と言う事が頭をよぎりましたが、まずは、娘の状態がもう少し良くならないと、何も始める事はできない感じでした。4年生からは固定級に転校しました。娘は転校前の学校では、男女問わずお友達が帰りの支度を手伝ってくれたり、気にかけてくれたりした環境だったので本当に苦しい判断でしたが、娘自身が「ママ、固定級行く」と決めました。友達と遊ぶ事が何より楽しい子供が、大好きなお友達と別れる決断をする程毎日が苦しかったんです。固定級に転校すると学校に遅れてくる子、早退する子、お休みしている子も沢山居て、娘は自分だけじゃないんだと思えたようでした。先生方も娘の為に相当な配慮をしてくれましたが、まだまだ娘には、周りが予想できない様な不安がありました。それでも、当たり前に絶対に学校に行かなきゃいけない、勉強しなきゃいけない雰囲気に感じなかった固定級では、少しずつ参加できる時間も増えてきました。私の付き添いがなくても居られる時間が、1〜3時間ありました。 毎日担任は電話をくれ、「明日の○時間目は、校庭で体育をしている子供達がいるので、駐車場まで迎えに行きます」や、「移動教室の事前学習はこんな物をやりますが、羽美ちゃんには○○を○○教室でやっても大丈夫です。みんなの前で言えない場合には、○○のタイミングで私が聞きに行きます」とかなり細かい部分まで打ち合わせを1時間はしていました。※2.固定学級とは 教育活動全般において特別な支援を必要とする児童・生徒を対象として設置される学級。 支援の程度に従って子ども一人一人に応じた教育を行います。1クラス8人程で編成されています。しかし、4年生の冬休み前から調子が悪くなり、娘は人生で初めて胃腸炎になり、嘔吐を繰り返した事が怖くて、給食だけはどんな日でも行けていたくらい食べる事が楽しみな娘が、学校の給食に行けなくなりました。みんなの前で吐いたらどうしようと言う不安です。そこからがまた、想像もできないくらい大変な日々の始まりでした。学校もほとんど行けず、真冬でも家中の窓を開けないと眠れない。トイレ、リビング、寝室、全ての窓です。食事をとる時には私以外の家族が入ることがダメ。食べる事へのタイミングや環境を整える事がかなり大変でした。この時期にはどこにも出かけられなくなりました。「気持ち悪い、怖い」という気持ちが強く、たまに行けたカウンセリングさえ、エレベーターの匂いが無理、廊下や待合室の匂いが無理。私が早く歩くのも気持ち悪くなる、娘より遅く歩くのも気持ち悪くなる。娘が、「カウンセラーさんに気持ち悪くなる事を話して欲しい」と言われたので、話すと「吐くって言葉を使わないで!気持ちわるくなるから」と怒鳴られ、カウンセラーさんが、あんなに怒りの溢れたうみさんを初めてみましたとビックリした程でした。ママがいない時に吐いたら死んでしまうかも知れないと言う恐怖心から私と1分も離れられない日々。緊急受診しようと話しても、車に乗っている時に吐いたら怖いと行けず。嘔吐恐怖の不安が強くなる事で全ての不安が強くなり、過敏性も強くなりました。2.3年生の時に発言した言葉と同じように「なんで私は普通じゃないの。普通に小学校に通って、みんなと普通に遊びたい、普通に中学に行って、普通に高校に通いたい、なんで私はそれが出来ないの。」と、泣いて泣いて毎日なだめるのが大変でした。可哀想で毎日涙を堪える事に必死でした。この時期、学校がどうとか、友達と遊んだと言うような記録が何処にもなく、恐らく私も記録が書けない程大変な生活だったんだと思います。でも、そんな毎日の中で未来への変化も小さく生まれてきていました。脳の特性による感じ方、捉え方、または苦手な部分と、元々の性格、環境が相まって、娘は基本的に不安が多い。環境が合わない事により、2年生から不安症を発症していました(不安障害とは、日常生活に支障が出るほど強い不安や恐怖を感じてしまうことの総称です。)。そんな生活の中で、通級で教えてもらった認知行動療法(考え方を柔軟にしたり、行動を変えたりすることによって、辛い気持ちを和らげること)の本を買って、娘と読むようになりました。一番酷かったこの時は、さらに種類を増やし、どれが娘に合うのか、すがる想いで読んでいたと思います。本を読んでは生活の中で試して、一日に何度も起こす恐怖から来るパニックの度に試してみて、寝る前に2人で復習する。それは高校生になった今でも何かあればその不安に対してどうするか、今の娘の年齢にあった対策をやってみます。その結果、今ではだいぶ。。。そこに私が居なくても、一人で落ち着けたり、不安になった時に、私と一緒に繰り返した思考を変えてみる、行動を変えてみる事をして、乗り越えられる事が増えてきました。さて、この状態が5年生に入る頃まで続きましたが、3月くらいには、月に1日2日、近所の友だちと2.3時間遊べたり、家族で近場のイベントや動物園には行ける様になってきて、外に出られる事にホッとしていました。2月末に、「娘が2時間程友だちと近所で遊べて、久しぶりに娘と離れて一人の時間が過ごせた」という私の記録がありました。一緒に歩んできた認知行動療法などがようやく活きてきた時期だったのかもしれません。5年生になると大好きな学年主任が個別対応してくれる時間には、楽しみに学校に行けるようになりました。学校に行く日数が減った事で、だんだん快くなっている感じがします。月に2.3日時間を決めて。それが娘には良かったんです。行事なども、見学だけでも良い、無理ならお休みでも良いと、学校側が協力的でありながら、娘に負担をかけない声かけをしてくれ、基本的に全て私の付き添いですが、時々現地で私がいなくても大丈夫な事もあったり。家での生活は、娘がやってみたいお菓子作りや、ご飯つくりなんかも沢山しました。私の友人関係のBBQや地域のイベント、町内会のイベント参加、近所の友人達と遊べる事も少しづつ増えてきました。一緒に食べる事は難しかったり、何かと細かい制限や環境調整は必要でしたが、暗黒時代をぬけてきていたのです。犬の散歩も毎日行ける様になり、散歩の最中に友達に会えたら少し遊ぶ様な毎日。元気になってくると、また家族以外に認められたいという気持ちも大きくなり、自分が作った工作を友達に見せたい、作ったお菓子をあげたい気持ちも強くなりました。6年生でも学年主任の上手な対応により、学校に通う時間は楽しんで通えるようになっていきました。「てつ」いや、もう、ちょっと表現や感想にあてる言葉がまったく浮かばないので、そのまま結論だけ。これだけの時間と体験を経てきたこと。その中でも希望となるような可能性=認知行動療法とかに出会い、実践してきた体験。これがレインボールームの立上につながっていったんだってすごい思います。では、次回はいよいよ、レインボールームの立上の話をお願いします。
「ちゃんちき堂のてつ(以下てつ)」このクラウドファンドのコンサルを請け負ったちゃんちき堂のてつと言いマス。さて、60日間のクラウドファンドも遂にあと数日で終わりを迎えようとしています。https://camp-fire.jp/projects/view/734702#menu最初のゴール=引っ越し費用の100万を突破して、ページビューも8,000を突破して、多くの方が支援してくれて、注目してくれている今。なんでレインボールームが立ち上がったのかって話を注目してくれているみなさんにみてもらうのはどうだろうか?そう思って、この全3回の企画。題して「レインボールームが立ち上がるまで」を立ち上げました。もちろん、語り手はレインボールーム代表の「松原陽子(以下ようこ)さん」デス。今日は、長くなりそうですが、よろしくお願いします。「ようこ」はい、よろしくお願いします。今日は、過去のメモをもとにお話しますね。やっぱり。今は支援者なので、今の私からしたら過去の自分に教えてあげたいこと、わかっていることがたくさんあります。ですが、当時は一人の親としての私が、私なりに出来る最大限の理解、対応で、それ以上はなかったと言う事で、そのままの当時の記録をお話したいと思います。「てつ」はい。そうですね。今は専門家としてのスキルもあってのようこさんが、今のようこさんにたどり着く前の物語が大切だと思います。早速ですが、ようこさんの娘さんの羽美(うみ)ちゃんがきっかけになったって聞いているので、そのことからお話聞いてもいいですか?「ようこ」はい、わかりました。娘の羽美は保育園時代から、非常に不安が強い子でした。見通しがつかない事が不安なため、初めての場所、人、行事の全てが不安でした。だから当然、環境の変化にも弱い。保育園児だと言うのに、社会的規律を守らないといけないという気持ちが強く、先生達は娘に怒ったりしないのに、娘自身が「出来なかったらどうしよう、叱られたらどうしよう」と不安になっていました。保育園では主任先生から「運動会の練習中、肩で息をしていると思います。なんだろうな?私もわからないけど、カウンセリングなのかな?必要かも知れないです」と言われ、すぐに受診をし、発達障害(現在は神経発達症)と言う事がわかりました。「てつ」それはびっくりというか、ようこさん自身も不安になりますよね。「ようこ」いえ、実は逆でした。私の性格なのかしら?この時、私は嬉しいと言う気持ちが強かったです。発達障害なら発達障害について学べば娘の不安を何とか出来ると思ったので、発達障害の事を勉強するようになりました。「見通しの持てる園生活が出来ると良い」と言う事がわかり、園はすぐに対応してくれて、お散歩のコースも事前にどの道を通るのか説明してくれたり、娘が不安な時には、赤ちゃんクラスに入れてくれ、娘に赤ちゃんのお世話をするという役割を与えてくれました。保育園のこの対応には感謝でしたが、娘自身、みんなと同じ事が出来ない自分を責めていた様に感じます。「私はやらなくて良いから、参加しなくていいから、ラッキー」なんて事は全く思わない子だったんです。そんな気持ちのまま、小学校に上がり、1.2.3年の先生も非常に優しく、人間的にも人格者だなぁと言う様な先生に当たりました。それでも娘は、周りの子が叱られている事全てを自分が叱られているかの様に感じる。(この様に感じてしまう人は、神経発達症児だけに限らず繊細な子でもいますよね)つまり娘からしたら、一日中叱られている感覚なわけです。「てつ」そういう特性っていうことですよね。それは想像しているだけで辛いことだナ。。。「ようこ」そうだったんです。1年生初日に、先生が「手を膝に置いてください」と言った時に、娘の隣の子が、手を膝に置かなかったのを見て、娘がその子の手をとり、その子の膝に乗せたと言う事もありました。ちゃんとしないと叱られる。やらなくちゃいけない決まりなんだと娘は焦るんです。他にも、知的理解力はあるはずなのに、「先生が言ってることが、わからない」と毎日泣きました。話を聞いてみると、例えば「宿題を前に出してください」と言われたら、「前って?先生の机の上?教壇の上?ノートは開いて出すの?閉じたまま?わからないと怒られる」と思っていたそうです。他にも娘の特性でもある、板書の苦手さ。見た物を写す力の弱さ。板書が苦手だと、ノートに書き写すペースが遅いので焦る。自分だけがまだ終わらない、どうしようと思う。これが1時間目から5時間目6時間目と続きます。帰宅するとクタクタですが、宿題がある。漢字が苦手な娘。逆さ文字や鏡文字を書いてしまう。(親の私からしたら、その文字さえ可愛くてたまらないのですが)娘自身がちゃんと書けないと叱られると思い、焦り、2時間もかけて漢字ドリルをしていました。宿題が終わったあとは、もう明日の学校の不安によるパニックが始まります。娘の不安は、私や学校の先生含め、おそらく誰にも想像出来ない細かい部分で起きていました。教室移動の際、先生に「廊下に並んでください」と言われれば、後で「背の順ね」と言われる前に、一瞬にして「並ぶってどう言う風に?背の順?名前順?」て、焦る。移動中にお喋りしながら歩いている子がいれば喋っていたら叱られるよと焦る。発表会の練習でステージに上がる際は、自分はステージに上がったらどこに立てば良いの?違う場所に立ったら叱られると、先生の指示がある前に考えて不安でしかたがない。「見通しを持たせてあげる」の「見通し」が、ここまでのものか…と、帰宅してから、話を聞いてやっとわかる毎日。わかった事は担任に連絡し、次回からは事前に教えてもらうわけですが、日々、想像もつかない不安が沢山あり、連絡が追いつかない状態。この頃自宅では毎晩「学校に行きたくない」と夜、2,3時間程泣く、朝起きたら泣く、の日々。私は仕事をしていたけれど、職場もそんな家庭の状況に理解があったので娘に、「休んで良いんだよ」と声かけしていましたが、「休めるわけないじゃん」と、泣き喚き、登校時刻になると、スッと泣き止んで学校にいきました。この、スッと泣き止む行動は、自分の心を殺している瞬間だったんだと思います。2年生から通級(※1)に通いましたが、週に1回違う学校に行く事も不安で、パニックを起こし個別支援対応をして頂きました。変わらず、私の「休んで良いんだよ」の言葉で休む事はできず、私と保健室登校をしたり、娘が参加出来る授業のみ、選んで行く日が増えてきました。2年生の終わり頃から、夜「世界が死ねば良い」「学校が燃えてなくなれば良い」「ママ。自分が殻の中から出られない感じがする」と言い出しました。一日中、怒り、イライラ。私は母から「鬱病だと怒りの感情が出る人が多いからね」と昔教えてもらった事があり、え、グッタリ静か…だけじゃないんだ!とビックリした記憶があり、鬱が頭をよぎりました。友達と放課後遊ぶ事も減ってきました。自宅横の袋小路で姉も含めてみんなで遊ぶ事が好きだったのに。。。学校から帰宅すると、ソファーに横になり、何もしない。鬱…かも知れない。そう思ったのがこの時期です。「てつ」一回目はここまでとなりますが、体験談だけに本当に壮絶デスネ。。。そして、まだまだこれからの話となりますが、羽美ちゃんみたいなお子さんをもった親御さん、そして関わる学校などの教育機関が「出てしまった症状」を理解しながら対処していくことの、そして学習していくことの限界も感じます。どうしても後追いになってしまうというか。。。この時点で、こういった子ども達の特性をよく理解し配慮した環境を有した場所があったら、当然ここまでの状態にはなっていないんでしょうし、この経験がようこさんの中でレインボールームに収れんしていくのは、とても理解できます。同時に、ここまでの対応を家庭内でできる方もなかなかいなかったでしょうし、この状況下で、次のステップに行く気力があるようこさんは、ちょっとすごいネ。※1.「通級」とは、日本の義務教育における特別支援教育の制度の一つで、通常の学級で学習しながら、通常の教育課程に加え、又はその一部に替えて個別的な特別支援教育を受けることの出来る制度のこと。