発達障害という言葉が今、この国全体を覆っています。
でも、実はこの言葉の現時点での正式名称は「神経発達症」と言います。
そして、私たちはこの考え方を一歩進め、「神経発達特性」であると定義しています。
発達障害と聞くとどういう印象をもたれるでしょうか?
発達に「障害」がある。
言葉のままとるとそういう風に取る方が多いかと思います。
そう、今現在の「社会構造」の中では生きずらい特性であるからこそ、「障害」という言葉が使われています。
神経発達症と聞くとどうでしょうか?
神経の発達になんらかの「症状」がある。おそらくはマイナスの。
そういう印象を持たれる方が多いかと思います。
同時に、症状が出ているのであれば、現代の医療技術や様々な心理療法によって症状は緩和・治療できると考えるのではないでしょうか。
私たちは「特性」と捉えています。
なんの?それは「脳の持つ」特性です。
私たち人間はそれぞれが脳の構造、そして社会参加していく中の発達の過程で「個性」を獲得していきます。
脳の構造は一人ひとり少しずつ違っていて、育成環境もそれぞれ違っていて。
その掛け算で「個性」は育まれていきます。
この脳の特性の中で、「現代社会で生きずらい特性」を持っていることが発達障害であり、神経発達症であり、神経発達特性なのです。
脳の構造自体のことですから、「症状」であるかのように捉え、治療することはできないのです。ただ、育成過程において、他者との関わり、成長のステップの作り方によって新たに獲得していくスキルによって社会参加しやすくしていくことはできます。
レインボールームはそこを目指しています。
同時に社会参加しずらい特性は「障害」でしょうか?
正確には一人一人の子ども達が抱える「障害」でしょうか?
私たちは違うと思います。
歴史をさかのぼって眺めて行けば明らかなように、私たちの社会は常に変化を続けてきました。それはイコール、その時々の社会の中での「生きずらさ」もまた変わってきているのです。
「生きずらい」の「壁」=「障害」は社会の側が作り出すものだと私たちは考えています。
ですから、もし、発達障害という言葉を使うのであれば「特定の子ども達が生きずらい障害物を作り出している社会」という意味で使われるべきだと私たちは考えています。
その社会の中で孤独に生きるこの特性を持った子ども達が併発するのが不安障害や、自律神経失調症、鬱状態、鬱病といった二次障害であり病気です。
そうして二次障害を発症した子ども達はさらに孤独の中に追い込まれていき、時には自傷行為を繰り返すようになり、時には自殺未遂を引き起こすことになるのです。
だから、彼らの周りのまだ小さな小さな社会の中に必要なのは「世界はあなたを拒絶していないよ」と。
「あなたはあなたのまま、ここにいてもいいんだよ」と。
「あなたのことを私たちは必要としているんだよ」と。
心の底から思い、そして伝える居場所なのです。
レインボールームがある意味とはここに尽きると私たちは考えています。
安心できる居場所をみつけ、そこで他人に認められる経験を繰り返すことによって、子ども達は傷ついた心を癒し、一人一人の歩幅で新しいことにも挑戦していけるようになります。
必要なのはレッテルではなく(※)、他者に認められることにより、育まれる自尊心なのです。
新たに挑戦し獲得していく個性の中には他者との関わり方を覚えることであったり、助けてと言えることであったり、自己理解であったり。
そうして、自らの特性を活かしつつ、新たに社会参加していくための個性を獲得していくことが可能になる感動的な瞬間を私たちは体験してきました。
この場所は、私たちにとっても、そしてこの子たちにとっても、だからこそ必要な場所だと確信しています。
※レッテルの説明
現時点での社会では社会参加しにくい「重度な特性」があります。本当は社会側のテクノロジーの進歩が追い付いていなかったり、寛容性の問題が生み出す壁ですが、それを本人の「障害」として認定することによって社会保障制度に参加することが可能になります。そういう意味での神経発達症というカテゴライズは生きるために必要なことです。