2024/03/21 17:15

陸奥宗光・渋沢栄一との出会い
陸奥宗光(1844-1897)は、明治時代の政治家で、外務大臣や農商務大臣を務めました。彼は東北地方にルーツを持ち、仙台藩の伊達家の子孫でした。幕末期には、父伊達宗広が権力争いに敗れ、家族は苦境に立たされました。陸奥宗光はその後、伊達姓から東北地方を総称する陸奥姓に変え、政治活動を展開しました。

陸奥宗光は幕末に紀州藩の束縛から逃れ、神戸の幕府海軍操練所に入学し、坂本竜馬と共に学びました。この時期の経験が後の活動の基盤となり、明治維新の中心人物として活躍しました。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」にもその活躍が描かれ、文学碑が長崎に設けられています。

明治維新後、陸奥は新政府で要職に就きましたが、薩長土肥の藩閥政治に属さないため、明治六年に政界を離れました。その後、西南戦争時に政府転覆計画への関与疑惑で逮捕され、東北の監獄に長期間収監されました。

古河市兵衛(1832-1903)、通称「鉱山王」と呼ばれる実業家は、陸奥宗光と深い縁がありました。市兵衛は、陸奥が獄中にいる間、彼を支援し、食事や本を差し入れました。市兵衛自身、明治初期に小野組での活動を経て足尾銅山などの事業で成功を収め、経済界で影響力を持っていました。

陸奥宗光は釈放後、知識を深めるため欧米に遊学し、その費用の一部は市兵衛によって支えられました。また、この時期、渋沢栄一(1840-1931)も陸奥の学費に貢献しました。渋沢は日本の資本主義発展に大きな影響を与えた人物で、足尾銅山などの事業でも市兵衛と協力しました。

陸奥宗光と市兵衛、そして渋沢栄一の関係は、日本の近代化過程で重要な役割を果たしました。市兵衛は陸奥の次男を養子に迎え、渋沢とともに事業を支え、日本経済の基盤を築くことに貢献しました。これらの人物の交流は、政治、経済、そして社会全体に深い影響を及ぼし、日本の近代化に大きく寄与しました。