~水戸と牧ノ原のお茶について~
なぜ茨城県水戸市のお茶屋の屋号が牧ノ原なのか?
皆さん、不思議に思いませんか。
そこには、激動の幕末の出来事が大きく関係しています。
お茶処である「静岡牧之原」と「水戸」の関係について簡単ではありますがご紹介いたします。
そもそも静岡県でお茶の栽培が本格的になったのは、明治になってからでした。
その栽培の中心人物が「中條金之助景昭」です。
景昭は将軍家に仕え、武術を指南する剣術・柔術世話心得などを歴任していました。
大政奉還の後、慶喜の身辺を危ぶんだ勝海舟らが慶喜を警護するために「精鋭隊」を発足させ、その頭として抜擢されたのが景昭でした。
景昭は、江戸開城の際や慶喜が水戸に退く時にも、精鋭隊の頭として同行。
そののち慶喜や徳川宗家が駿府(静岡県静岡市)へ強制移住される際にも、慶喜に従い精鋭隊やその家族と共に移住しました。
明治2年7月、徳川宗家の許可を得て金谷以南の原野を金谷原開墾方として元幕臣とともに開墾を開始。
当時、開国した新政府は外貨獲得の輸出品として生糸と茶に注目しており、勝海舟らの提言もあってお茶の生産を決めました。
牧之原荒野の慣れない開拓開墾は苦難の連続でしたが、見事に茶園として開拓され、
茶の一大生産地となったのは景昭をはじめとする関係者の努力の賜物です。
水戸と静岡県牧之原台地に広がる大茶園には、徳川慶喜と警護の要である精鋭隊の頭である中條金之助景昭との関係があり、
その後のお茶処静岡の礎を築く物語がありました。
茨城県水戸市で屋号が牧ノ原のお茶屋。
茨城県の水戸徳川家と静岡県の駿府、さらに茶園整備。
歴史を紐解くと思いがけないつながり・縁があったのです。