洋画家佐伯祐三の生家で障がい児と地域のアート拠点とアーカイブギャラリーを作りたい

佐伯祐三の生家が福祉事業を始めて100年。 大正末期から母子寮、幼稚部、図書館、日曜学校、お寺カフェ、相談指導、保育所、障がい児の入所施設など社会福祉事業を続けてきた歴史ある場所「中津学園(光徳寺善隣館)」を、障がい者と地域の人々やこどもがアートを通じて交流できる場所として再生したいです!

現在の支援総額

2,449,997

48%

目標金額は5,000,000円

支援者数

226

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2024/11/01に募集を開始し、 226人の支援により 2,449,997円の資金を集め、 2024/12/16に募集を終了しました

洋画家佐伯祐三の生家で障がい児と地域のアート拠点とアーカイブギャラリーを作りたい

現在の支援総額

2,449,997

48%達成

終了

目標金額5,000,000

支援者数226

このプロジェクトは、2024/11/01に募集を開始し、 226人の支援により 2,449,997円の資金を集め、 2024/12/16に募集を終了しました

佐伯祐三の生家が福祉事業を始めて100年。 大正末期から母子寮、幼稚部、図書館、日曜学校、お寺カフェ、相談指導、保育所、障がい児の入所施設など社会福祉事業を続けてきた歴史ある場所「中津学園(光徳寺善隣館)」を、障がい者と地域の人々やこどもがアートを通じて交流できる場所として再生したいです!

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佐伯祐正 の付いた活動報告

すっかり冬めいてきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?11月23日の「なかつマルシェ〜新しい中津学園にいらっしゃ〜い!!〜」開催から、もう直ぐ1ヶ月になろうとしています。ご来場者は、500名ほどだったそうです。たくさんの方々にご来場いただき、嬉しく思っております。改めて御礼申し上げます。 その時の様子などをお伝えする「光徳寺善隣館だより」ができましたので、ご報告申し上げます。ご笑覧いただければ、幸いです。


いよいよクラウドファンディングもあと3日。ご支援が続々と集まっており、毎日感謝の気持ちでいっぱいです。今までは祐正や祐三の時代の話を中心に書いてきましたが、今回は現在の中津学園のお話を少しだけお伝えたいと思います。 祐正が空襲で大けがを負い、わずか49歳で亡くなってしまったあと、祐正のもとで働いていた役僧の中には、檀家さんを引き連れ自分の寺を建てて出て行ってしまった人もいて、檀家さんも減り、残されたのは事業のことを知らない女性とこどもばかりだったそうです。しかし途方に暮れる間もなく、刀根山カントリーハウスを含む不動産の一部を処分し、妻千代子は保育所を作ります(1949)。その当時は第一次ベビーブームが到来し、働くお母さんのための保育所が不足していたのです。常に定員を上回り95名の定員にまで膨れ上がり、地域でも非常に喜ばれたそうです。他方、1951年ごろになると、祐正の長男・祐元は、精神薄弱児のための施設であり、先進的であった近江学園(滋賀県大津市)に実習に行くことにしました。この施設で祐元はなりふり構わず児童と寝食を共にし頑張ったそうです。その体験が元になり、中津学園でも精神薄弱児施設を運営してみようということになりました。地域では、徐々に保育所、幼稚園が盛んに建設されその役割は他施設に任せることができると考え、むしろ、当時はまだまだ家の中で閉じ込められ阻害されていた障がい児を家庭的な雰囲気の中で育てることが重要と考えたようです。そんなわけで、保育所をたたみ障がい児の居住施設「中津学園」が誕生しました。1961年(昭和36年)の出来事です。戦争や社会情勢の変化の中でも、その意思を絶やすことなく社会福祉事業に邁進してきた佐伯家ですが、現在も次のステージに向けて、中津学園の建て替えを進めているところです。現園長・渡辺祐子(佐伯祐正の孫)は言います。「祐正の妻・千代子が、保育所を始めた時から今まで、なりふり構わず社会福祉事業を進めてきました。しかし、建て替えを機に、近畿大学寺川研究室などの力を借りてアーカイブを整理する中で、もう一度、祐正が目指していた地域に開かれた拠点としての要素を取り入れていきたいと考えています」泣いても笑ってもあと3日、精一杯頑張ります! 


クラファン終了まであと4⽇! N H Kニュースと読売新聞で報道されました! いよいよあと4日になり、苦戦中ですが、N H Kと読売新聞に取材いただき、昨日と今日報道されました。誠にありがたい限りです。N H Kは本日(12/12)朝2回、夕方の「ほっと関西」の計3回ニュースで報道いただきました。 また、讀賣新聞は、昨日(12/11)の夕刊で。クラファンのQ Rコードまでつけてくださってました。 どちらも報道の後、クラウドファンディングの支援が増えました。優しいコメントをくださる方も多く、ジーンときます。一つずつ読んで、返事を書いています。  


いよいよ、クラファン終了まであと7⽇です!! 今日は少し趣向を変えて、佐伯祐正の小ネタを披露します。中津で働く人たちの生活を少しでも良くしようと私財を投じて、寺の敷地内に善隣館という施設を作った佐伯祐正。真面目で堅苦しい人かと思いきや、文献を見るととっても楽しくてお茶目だった人柄がうかがえます。当時の事業を紹介した文章にこんな一文があります。善隣館の授産部(今でいう就労支援事業)を紹介する内容の中に「ノシスルメ製造、ブラシ製造、王冠、ミシン、縫製等」とあります。ノシスルメ製造?? このエピソードはどうやら本当のようで、過去に、佐伯家と関係者の人たちが集まった座談会の場で祐正の娘さんがこんなことを語っています。「アメリカ産の車で市場までイカを大量に買い出しに行って、それを善隣館でノシスルメにして売っていました」と。当時、かなり高級だった外国車でイカを買い出しって。。。そのあと、車に乗ったらイカの匂いが充満してたんじゃないかと想像すると爆笑しました。 また、ある時は刀根山カントリーハウスに客人を招き松茸狩りを楽しんだそうです。そう都合よく庭に松茸が生えているはずもなく、種を明かせばわざわざ市場で松茸を買ってきて、それを庭先にあらかじめ植えて松の葉を被せて、客人に松茸狩りを楽しんでもらったそうです。※刀根山カントリーハウス:煤煙の中津の街を離れ、澄んだ空気、緑多い場所で労働者にリフレッシュしてもらおうと、祐正が作った保養施設。豊中市にあった。 社会福祉の黎明期にいろんなアイディアを出しながら、自身も楽しんで社会福祉に奔走した様子がうかがえます。 横道にそれますが、下記の写真では丸い小さな部品を山高く積んだ中に、作業をする女性と祐正が写っています。これは何の作業をしているのかなと不思議に思っていたのですが、先の授産事業の中に「王冠」とあるので、王冠を作る作業だったのではと思います。王冠は昔の瓶の蓋のことです。今の中津学園に続く社会福祉事業を創設した佐伯祐正は、人を喜ばせることが大好きな人だったようです。 


いよいよ、クラファン終了まであと10日です!!精一杯頑張りますので、拡散やご支援ぜひよろしくお願いします。少し前になりますが、同じ中津にある西田工業株式会社様に行ってきました。その時の様子です。クラファンを通じて、さまざまな人々と繋がることができることも大きな魅力の一つだとクラファン終盤でしみじみ感じています。***中津駅に降り立つとババーンと目に入る「西田工業」の看板。中津にいる人なら何となく認識しているその会社(中津民の証言)。 私は中津民じゃないので看板のことは知らなかったが、「ハイパー縁側」の取り組みはよく目にしていた。S N Sでよく目にし、楽しそうなイベントだなと。そのビルオーナーの社長にお会いしてきました。 西田工業株式会社の自社ビル「西田ビル」は、硬い名前に似合わず何だか楽しそうだなというのが第一印象。半地下のようなところにはクラフトビールの小さな工場があり、ガラス越しからその様子が見える。その横には現代アートの作品が無造作に置かれている。階段状になったベンチもおもしろい。疲れた時にちょっと休める「ゆとり」を感じるスペースだ。2階はシェアオフィス、3階はテレビ撮影で何度も使われているイベントスペースのあるレンタルキッチンもあるという。さらにtool box というD I Y素材や道具を扱うテナントショールームもある。4階以上は居住スペースになっている。 さて、1階の会議室に通していただき、西田社長に中津学園のクラウドファンディングの主旨を説明し、チラシの配架をお願いした。とても丁寧に説明を聞いてくださり、チラシの配架だけでなくご支援までも快諾してくださった。「建設業という仕事柄、どちらかといえば外部に出かけて仕事をするので、ビル周辺とのつながりは今まではほとんどなかったと言えます。しかし、ビルのリノベーションを機にシェアオフィスを運営することにし、地域に開く取り組みを始めました。」先述のハイパー縁側の取り組みもその一環らしい。「これからは人件費や建設費の高騰への対応、地球環境への負荷低減の観点から、スクラップアンドビルドではなく、使える建物は使うコンバージョンやリノベーションを重視していきたいと考えています」という会社の取り組み方針を話してくださった。中津学園の渡辺園長からは「佐伯祐正は中津の地域課題を解決したいという想いは熱く、様々な社会福祉事業を進めていました。しかし第二次世界大戦の空襲の被災により道なかばで死んでしまった。建物も全て焼失してしまいました。そのあとに残された妻や子どもは、事業の総指揮かつ企画者であった祐正を亡くし途方に暮れたことでしょう。しかし、それよりも福祉事業の火を絶やしてはいけないと、がむしゃらにその時代のニーズに合わせて保育所、障がい児の居住施設を運営し奔走してきたのです。正直なところ、一旦ゼロになった事業を再建するには本当になりふり構っていられなかった。ですがここに来て、建て替えを機にやっと祐正の想いを振り返り地域に開く取り組みをしていこうと思えるようになりました」と。どちらも100年以上の老舗ですが、今まで接点がなかったのが不思議なぐらい。昔の中津の街の様子で盛り上がる場面もありました。これをご縁に交流ができたらいいなと思ったのでした。おまけ:西田社長がお見送りしてくださる途中に、レトロな磨りガラスの扉がありました。それを撫でながら、「この摩りガラスも今はもう作られていないものです。このざらざらとした暖かい感じ、何とも言えない味わいがいいですよね」と。でも、私以外はみなさん福祉畑の人だったので「???」が飛んでました。 一方の私は、建築出身でレトロ建築も大好きなので、「わかります!!それ大好物です」と心の中で叫んでいました。そういうところもすごく親近感が湧きました。


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