癌について。
「六甲山の夜景を観て思うこと。」
今日は113回目の抗がん剤治療です。
今日は少し「生きようとする」理由について書こうと思います。
先日、六甲山に登り(ケーブルカーでですが)神戸の夜景を眺めて来ました。子どもの頃は「100万ドルの夜景」と呼ばれていましたが、いつしか「1000万ドルの夜景」に値上がりした夜景です。笑
この夜景は私たちにとってとても深い意味があります。
1995年、1月17日5:46分に発生した「阪神大震災」(兵庫県南部地震)」
震度7(当時は街の建物の倒壊度を見て震度を決めていました)の直下型地震。
空がピカ!っと光ったあと大きな揺れに見舞われました。本やストーブが浮き、ブラウン管テレビが、飛んでいました。
怖かった。でも、本当に怖かったのはこのあと現実を見た時でした。
周りの家は倒壊。人が埋まって住民総出で引き摺り出し、漏れたガスが充満。ガス爆発もありました。
近所は火が出たので、空には真っ黒の煙と火。
取材と救難のヘリ、消防車の音、ガス会社のサイレンがこだましていまし✧*。٩(ˊωˋ*)و✧*。あた。
近所の避難所は(体育館)に集まる人々。
「生きた人」と「死んだ人」が寝袋や何かに包まり、並んで寝て、余震の続く夜を過ごしました。
病院では廊下に怪我人が並べられ、生きそうな可能性のある被災者から治療がなされました。
沢山の人が近く(目の前)で死にました。
多くの人々が1番大切なものを失いました。
私は「生きている人」と「死んでいる人」の違いを知りました。
あまりに悲惨な事実を突きつけられた時。
人は泣きません。
避難所に身を寄せて、手で頭を覆い。ただただ「黙って(黙して)この悲惨な災難と恐怖が頭の上を過ぎ去るのを待ちます。
神戸は東灘区などで大火災が起きたりビルはほとんど倒壊、半壊。一時は瓦礫の積み重なった死んだ街になりました。
それから20年。「がんばろう神戸」をモットーに、復興をしてきました。
本当に沢山の方の思いと祈りで、誰も来なくなった街がまた、復活し、一大観光地へと復興することができました。
なので阪神大震災の被災者の私たちが神戸の夜景を見ると、阪神大震災のことを思うとともに、真っ暗になった街がここまで復興したことを感謝します。
そして「苦難の中での人間の底力」を思わされます。
今回で113回目の抗がん剤化学療法。抗がん剤化学療法の直前は「巨大地震警戒注意」が発令されたあの日の皆様と心の状態は似ているかな?と思います。
阪神大震災の被災者として、「後世の人々のために阪神大震災の記憶を風化させてはならない。そして、死んでいった友のために、私は「生きる」。この二つのことをずっと心に持って生きて来ました。
110回以上、頭を抱えて抗がん剤化学療法の恐怖が過ぎ去るよう祈り、黙して耐えて来ました。
余命1年。でも、まだやれると思っています。
そして、阪神大震災で死んでいった人たちのため、そして、これから(もし)大震災が起こったなら、(その時生き残ったら)その人たちの「生きる力」となるために「生きたい」。
そう思っています。
これが「なんで悲惨な抗がん剤化学療法や手術を受けるのか?」ということの理由の一つです。
いつもお祈りしてくださってありがとうございます。
今日は1日病院で点滴、「甘んじて受けて」来ます笑
注、羊です↓