今回で「小児がんの子どもたちに編みぐるみを贈ろうプロジェクト」は12回目。 「ダウン症の子どもたちに編みぐるみを贈ろうプロジェクト」は7回目になります。 そして余命1年宣告から半年、私の抗がん剤化学療法は8/27で114回となりました。 これだけ回数を重ねることができているのも、ご支援いただいている皆様の「子どもたちへの思い」と「暖かいご支援」の恵みだと感じ、胸が一杯になりました。 季節は秋。「ご支援の秋」です。 どうぞご支援よろしくお願いいたします。 https://camp-fire.jp/projects/791029/view?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show たかお編みぐるみ工房 原田隆夫 https://line.me/ti/p/VeUr3srrw9
今回で「小児がんの子どもたちに編みぐるみを贈ろうプロジェクト」は12回目。 「ダウン症の子どもたちに編みぐるみを贈ろうプロジェクト」は7回目になります。 そして余命1年宣告から半年、私の抗がん剤化学療法は8/27で114回となりました。 これだけ回数を重ねることができているのも、ご支援いただいている皆様の「子どもたちへの思い」と「暖かいご支援」の恵みだと感じ、胸が一杯になりました。 季節は秋。「ご支援の秋」です。 どうぞご支援よろしくお願いいたします。 https://camp-fire.jp/projects/791029/view?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show たかお編みぐるみ工房 原田隆夫 https://line.me/ti/p/VeUr3srrw9
今日から9.10月の「小児がんや重病の子どもたちに編みぐるみを贈ろうプロジェクト12」と「ダウン症の子どもたちに編みぐるみを贈ろうプロジェクト7」を開始いたしました。 いつもプロジェクトを開始できた時は、「今回何回目(12回目と7回目)を数えながら、皆様への感謝の気持ちでいっぱいになります。 プロジェクトを開始したらまず私がすることは、フライヤー(広告のお手紙)を今までご支援いただいた方に送るということです。 その作業中、頑固な私のこだわりというと。 「宛名は100%、手書きです!」ということです。その理由は、皆様のお名前を手書きで書きながら、支えていただいていることを感謝してお祈りできるからです。 心を込めて宛名を書いています。 そしてもう一つ、実は宛名を書きながら、その地名の場所を想像しています。とてもしんどくて、家から出れない時、アトリエで皆様の宛名を書いていると、プチ妄想旅行ができちゃうのです。 気がつけば少し秋空。 新しい季節を皆様とまた過ごせることに、心から感謝しています。 たかお編みぐるみ工房 原田隆夫 プロジェクト12はこちら↓https://camp-fire.jp/projects/788488/view?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show
先日、お話をしに神戸子ども病院に行って来ました。 この夏も沢山の病の子どもたちが、(ダウン症や小児癌 だけでなく色々な病気の沢山の子どもたちが入院しています。こんなに沢山の「外来、科」があります。隣にはIKEAがあり、家族と入院中に外出した子どもたちもチラホラ。家族との大切な時間なんだなぁとIKEAの食堂で見て思いました。 いつもお祈り、そして暖かいご支援をありがとうございます。 私も癌に負けず、皆様の「子どもたちへの思い」を届けるために頑張ります! たかお編みぐるみ工房 原田隆夫プロジェクトはこちらです。https://camp-fire.jp/projects/776506/view?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show
癌について。「六甲山の夜景を観て思うこと。」今日は113回目の抗がん剤治療です。今日は少し「生きようとする」理由について書こうと思います。 先日、六甲山に登り(ケーブルカーでですが)神戸の夜景を眺めて来ました。子どもの頃は「100万ドルの夜景」と呼ばれていましたが、いつしか「1000万ドルの夜景」に値上がりした夜景です。笑 この夜景は私たちにとってとても深い意味があります。 1995年、1月17日5:46分に発生した「阪神大震災」(兵庫県南部地震)」 震度7(当時は街の建物の倒壊度を見て震度を決めていました)の直下型地震。 空がピカ!っと光ったあと大きな揺れに見舞われました。本やストーブが浮き、ブラウン管テレビが、飛んでいました。 怖かった。でも、本当に怖かったのはこのあと現実を見た時でした。 周りの家は倒壊。人が埋まって住民総出で引き摺り出し、漏れたガスが充満。ガス爆発もありました。 近所は火が出たので、空には真っ黒の煙と火。 取材と救難のヘリ、消防車の音、ガス会社のサイレンがこだましていまし✧*。٩(ˊωˋ*)و✧*。あた。 近所の避難所は(体育館)に集まる人々。 「生きた人」と「死んだ人」が寝袋や何かに包まり、並んで寝て、余震の続く夜を過ごしました。 病院では廊下に怪我人が並べられ、生きそうな可能性のある被災者から治療がなされました。 沢山の人が近く(目の前)で死にました。 多くの人々が1番大切なものを失いました。 私は「生きている人」と「死んでいる人」の違いを知りました。 あまりに悲惨な事実を突きつけられた時。 人は泣きません。 避難所に身を寄せて、手で頭を覆い。ただただ「黙って(黙して)この悲惨な災難と恐怖が頭の上を過ぎ去るのを待ちます。 神戸は東灘区などで大火災が起きたりビルはほとんど倒壊、半壊。一時は瓦礫の積み重なった死んだ街になりました。 それから20年。「がんばろう神戸」をモットーに、復興をしてきました。 本当に沢山の方の思いと祈りで、誰も来なくなった街がまた、復活し、一大観光地へと復興することができました。 なので阪神大震災の被災者の私たちが神戸の夜景を見ると、阪神大震災のことを思うとともに、真っ暗になった街がここまで復興したことを感謝します。 そして「苦難の中での人間の底力」を思わされます。 今回で113回目の抗がん剤化学療法。抗がん剤化学療法の直前は「巨大地震警戒注意」が発令されたあの日の皆様と心の状態は似ているかな?と思います。 阪神大震災の被災者として、「後世の人々のために阪神大震災の記憶を風化させてはならない。そして、死んでいった友のために、私は「生きる」。この二つのことをずっと心に持って生きて来ました。 110回以上、頭を抱えて抗がん剤化学療法の恐怖が過ぎ去るよう祈り、黙して耐えて来ました。 余命1年。でも、まだやれると思っています。 そして、阪神大震災で死んでいった人たちのため、そして、これから(もし)大震災が起こったなら、(その時生き残ったら)その人たちの「生きる力」となるために「生きたい」。 そう思っています。 これが「なんで悲惨な抗がん剤化学療法や手術を受けるのか?」ということの理由の一つです。 いつもお祈りしてくださってありがとうございます。 今日は1日病院で点滴、「甘んじて受けて」来ます笑 注、羊です↓