僕は生まれてからもう2回も死んでいる。3回目だなと思った今回、蘇りをかけてこのプロジェクトに挑んでいる。
生まれてすぐに僕は死にかけた。
生まれて1週間の僕は高熱を出し、救急で運ばれた。母親はその時、僕はもう死んだと思ったらしい。幸い一命を取り留めたが、その後も頻繁に日常的に発作があり救急車で運ばれることもあった。WPW症候群(ウォルフ-パーキンソン-ホワイト症候群)という病気だった。
もちろん僕は記憶はないが、この時に一度死んだと思ってる。幼少期は他人と同じような健康な毎日を送ることは失われた人生になった。この病気は中学生の頃に手術をして幸い完治した。
病気のことはあったけど、小学2年生から剣道を始め、体は少しずつ丈夫になっていった。運動神経自体は元から悪くなく、勉強も好きではないけれどそつなくこなすことができていた。
母は地元の進学高校出身だし、父も良い大学を出ている。親戚なんかは東大の学長がいたり、たどれば曽祖父は「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一の書生として、新潟での銀行開設に携わったり。エリートばかりだ。
真面目な自負があった。生徒会にも推薦された。
親は僕に「絶対に優秀な道を歩めよ!」と言うことはなかったが、僕は勝手にプレッシャーを感じていた。0か100でしか考えられなくなっていた。
勉強ができてこそ僕。勉強ができない僕は僕ではない。そんな思考に侵されながら、少しずつ成績が落ちる自分を許すことができず、これは僕が悪いんじゃなくて世の中が悪いんだと思うようになった。そもそも何故勉強してるんだろう?
成績は悪くなりはじめて、かつ理科の先生とウマが合わなくて、どうにか仮病を使って保健室でやり過ごせないか?ってことばかり考えてた。
ひねくれた僕は、同級生ともうまく関係性を築けなくなっていった。
多分いじめられてたんだと思う。ちょっかい出すやつはいつも2人でそのうちの1人は小学校のとき毎日あそんでた親友だった。昔は仲良かったのに、無視されたりうまく付き合えんかったりで日に日にストレスが溜まっていた。
そんな中学2年生の秋、文化祭の準備をしていた時に、僕は水筒の水を飲んだ。水筒の水を飲んでいいのは休み時間だけである。
いつも僕にちょっかいを出してくるやつが言った。
「あー!コアゼが水筒の水を飲んでる!いけないんだ〜!先生にいってやろう〜!」
完全に糸が切れた。僕は彼を殴りトイレに駆け込んだ。すぐにそいつも駆け込んできた。震えが止まらない。僕はそもそもそんなことできる度胸は持ち合わせてない。耐えられなくなった僕はそのまま学校を飛び出した。
そして登校拒否になった。
この時僕は二度目の死を迎えた。
もう、自分や親、先生の思う人生を送ることができなくなった。人生が終了である。そう感じるほどに理想と現実のギャップに苦しんだ。
そこから数年、僕は全てを失ったと思い込み引きこもる。自殺しようと思ったことは何度もあるし、家出もしたし親も殴った。
>続く
(今日から毎日6本、僕のヒストリーを公開していきます。これは1本目です)