文化大革命期に破壊されたラサのシデ・タツァン(学堂)の廃墟。オーセルさんは「まるでラサの巨大なケロイドのようである」と、そのすさまじい惨状を形容しています。シデ・タツァンの廃墟は2018年にすべて撤去され、元の場所にかつてのシデ・タツァンに似せた建物が再建されましたが、それで仏教破壊の歴史が帳消しになったわけではありません。
フランスのチベット研究者、ロラン・デエは自著『チベット史』の中で、文革期の狂瀾怒濤の様相をこう記述しています。
「文化大革命の間、チベット自治区は今までにない過酷な宗教弾圧を受けた。1966年夏紅衛兵が『世界の屋根』を行進し、熱狂的献身で『四旧』(旧い考え、旧い文化、旧いしきたり、旧い風習)を追放し、撤廃した。8月6日、彼らはジョカン寺を略奪し始め、小便所と屠殺場に変えた。9世紀の仏教弾圧者ラン・ダルマ皇帝の『中国人末裔』の出現である。千年以上の歴史を持つ文化の組織的破壊の始まりであった。10年後紅衛兵が残したのは、国中に6000程あった寺院、礼拝所の内わずか10余りであった。つるはしとダイナマイトにより、チベットは広大な遺蹟の荒野と化した。仏像は壊されるか、中国(成都、北京)に持っていかれ、中国自身がその消滅に気付き動揺する1973年まで、何百トンと積み上げられるか、溶かされた」(ロラン・デエ[今枝由郎訳]『チベット史』春秋社、2005年、340頁)
ちょっと想像していただきたいと思いますが、外来の政治運動によって奈良や京都の宗教文化遺産がこのような形で組織的に軒並み破壊されたとしたら、日本人は果たしてどこまで精神的に耐えることができるでしょうか。文革期にチベットで起きたことは単なる物理的な破壊にとどまらず、まさしくチベット人の精神文化を根底から破壊し、凌辱する行為であったのです。