チベットの英語表記は国際的に「Tibet」で定着しています。ところが、中国政府は昨年から英文の公式文書において、これまで用いてきた「Tibet」ではなく、中国語でチベットを意味する「西蔵」のピンイン(中国語ローマ字表記)である「Xizang(シーザン)」を使うようになってきています。その理由については明確に説明されていませんが、チベットが歴史的、民族的、文化的な独自性を有することを表す固有の概念「Tibet」ではなく、「中華人民共和国の一部としての西蔵(Xizang)」であることを強調し、チベットの中国化を推し進めるための布石の一つであろうと推察されます。地名として国際的に通用し、中国の人権抑圧のイメージをも想起させる「Tibet」という言葉をできるだけ遠ざけ、代わりに「Xizang」を普及させていきたいといった思惑もうかがえます。
具体的な用例を見ると、行政上の名称である「西蔵(チベット)自治区」は「Tibet Autonomous Region」から「Xizang Autonomous Region」へ、また鉄道路線の名称の「青蔵鉄路(青海―チベット鉄道)」は「Qinghai-Tibet Railway」から「Qinghai-Xizang Railway」へと変更されています。
ただ、「Xizang」は本来、地名として用いられるものですから、これによってチベット関連のすべての表記をまかなうことは困難です。したがって、「チベットの」「チベット人(の)」といった表記をするときには「Tibetan」を使わざるをえないようです。北京師範大学出版科学研究院が公表したガイドラインによれば、「Tibetan people」「Tibetan medicine」「Tibetan language」、あるいはチベットの野生動物「Tibetan antelope」などの固有名詞は従来通りの表記ということのようです。「青蔵高原」も「Qinghai-Tibet Plateau」ということになります。学術的な呼称としてすっかり定着してしまっている用語まで「Xizang」で代替することは非現実的ということでしょう。
しかし、「Tibetではなく、Xizangだ」という中国政府のメッセージの発信は国際社会に対して一種の政治的圧力として作用していく可能性をはらんでいます。中国の意向を忖度してわざわざ「Xizang」を用いるような風潮が今後広まっていく可能性がないとは言い切れません。オーセルさんもそうした懸念を抱いており、最近のSNSでの発信の中で、「Tibet」が「Xizang」に取って代わられることのないよう警鐘を鳴らしています。ことは単なる用語上の問題ではありません。今後の推移を注意深く見守っていく必要があるでしょう。