広げた風呂敷が畳めない僕の部屋には、色とりどりの風呂敷が広がり、何かを踏まず鼻をかむこともできない。
正直に言うと、今年も狂奏祭を開くことになると思っていなかった。僕は僕なりの忙しさに殺されて、何かに怒ることも忘れ、ただただどこかに向かっていた。振り返って見てみると僕はどこに向かうともなくぐるぐると歩いていただけなような気もする。歩いている間の僕は息絶え絶えで、次の一歩をどこに置こうか考えるので精一杯だった。振り返って見てみると、僕はどこか山の上の方にいた気もする。まとめると、僕はどこかの山の上の方でぐるぐると歩いていたということになる。
正直に言うと、今年も狂奏祭を開きたくなかった。去年の狂奏祭は間違いなく良かった。そこには何も疑いもないし、僕は僕たちを誇りに思っている。けれど、去年の狂奏祭がどう良かったのか、なぜ良かったのかについて、僕はまだ何も持ち合わせていない。その答えは僕の中でまだ拡散していて、破片を拾っても手がかりにはならなさそうだった。だから僕はこの狂奏祭というアイデアそれ自体にも、もう一回やることにも自信がなかった。もう一度やって、それが僕の期待もみんなの期待も越えられなかったらどうすればいいかも分からなかった。みんなが忘れてしまっていたら楽だろうなと思ったこともある。
けれど僕が山の上の方でぐるぐると歩いている時にも狂奏祭のことを覚えている人がいた。彼が僕に声をかけて、僕は一度立ち止まった。そうしてようやく僕はただ逃げているんだということに気づいた。僕は去年の狂奏祭の企画会議の議事録を全て読んで、連絡に使っていたdiscordを全て読んで、懐かしい気持ちと懐かしく感じている自分の不甲斐なさに打ちのめされて、その後少し驚いた。
僕は、僕たちは誰一人として、狂奏祭があのようなものになることを想像していなかった。僕たちがこれを「音楽祭」と読んでいた時、僕たちはあのような「音楽祭」になることを誰一人想像していなかった。現在の名前が決まっても、僕たちはただ週に一度集まって次の週までにすることを確認し、手探りでその輪郭を作っていった。そうしてできた輪郭の中に当日やってきた人がいろんなものを詰め込んだ。あまりにもものを詰め込むから、もともとかも知れないけれど、輪郭は千切れたと思う。いや、確実に輪郭は千切れた。その瞬間を僕は覚えている。
輪郭が千切れたその時、僕は何かを確信した。何かは分からない。
今年も狂奏祭を開いて、それがどんなものになるかも、熊野寮にとっていいことになるのかも、京大にとっていいことになるのかも、社会にとっていいことになるのかも、正直分からない。もちろん分からないなりにできることをやるだけだが、分からないことは分からない。
けれど僕がいるのは熊野寮という自治寮だ。そこには、分からないこともやってみられる土壌がある。そこには、場所があり、人がいる。そこには、今までの寮生がつくった自治があり、今の寮生が守る自治がある。そこには、何かの可能性があり、何かの希望がある。その可能性と希望は、今の社会の定規を当てなくても価値があるものとして認められる。
そうして僕は逃げずに向き合おうと思った。自分の周りにあること一つ一つに向き合って怒ったり、喜んだりしたい。自分がいいと思うことをいいと思うようにやりたい。
狂奏祭は僕にとって何か大きな意味がある。その意味は僕にとって何か大きな意味があるだけではないから。狂奏祭は僕たちにとって大事なもので、それはただ楽しいからとかではなく、もっと何か、何かがあると思う。みんなでそれを考えながら、みんなでそれをつくっていきたい。
僕たちが今いる大学や社会には怒るべきことがたくさんある。僕たちが今いる大学や社会では僕たちは僕たちらしく歩くことができない。僕たちは僕たちのために、集まるために集まって、怒るために怒りたいし楽しむために楽しみたい。そのために、もう一度みんなで立ち止まる機会が必要だと思った。
広げた風呂敷を畳むことはできないけれど、もう少しものを詰め込める気はする。何が手に入るかはわからないけれど、もう一度やってみようと思う。
寮外連携局長・京都学生狂奏祭統括 umi