母にシェアオフィス来音グランドオープンの報告とお礼を伝えに。亡くなった親族や、町の様子などの問わず語りを聞く。国鉄西条駅徒歩1分の歓楽街の真ん中に、祖父は藏田京染め呉服店を開いた。定食屋、キャバレー、バー、旅商人が泊まる旅館、なんと呉服店の向かい側には女郎屋まであった。木造三階建。子どもながらに非日常を感じさせる使途不明の小部屋が並んだ建物。人生の裏筋であった。牛馬市でお金を手に入れた馬喰さんたちが、ぱあっとお金を遣う街。おじさんにしがみつく女。料亭に通うお金持ちの男性が、女性たちを連れてきて着物を買ってやる。家で男を待つ女は1人もいなかった。呉服屋さんを開いた祖父の兄弟たちはさまざまだ。「イチジリ」で働いた「ショクバ」と呼ばれる畳屋さん、「チクレン」のおじさんは畜連(家畜を管理する連合会)で働いていた。男3人は平凡な人生だったが、2人の姉は自力で高級料亭を開いて、繁盛させた。すごいばあさんだ。江戸時代には本陣のある宿場として整備され、継立場や枡形の道、番所や制札場もある、藩が設営した宿(しゅく)は、山陽道の中でも繁栄した場所だ。でも、その裏街道で生きぬいた家族があった。その一つが私たちの家族。祖父がシベリアから帰って来るまで、祖母はつくり酒屋の瓶詰め作業をして子どもを養った。お盆にはもういなくなってしまった人たちの顔、区画整理事業で消えてしまった街並みが思い出される。ここにいる女たちは皆優しく、私を可愛がってくれた。祖母も母も猥雑な環境の中で育つ子どもに毅然と生きるため、教育を与えた。私は厳しく育てられた。私たちは、裕福でも資産家でもない。三代80年かかって、私がここにいる。混迷する時代を生き抜く根性と覚悟と知恵。それを祖父や父ではなく、女たちから学んだ。力仕事もするし、泥水だって飲む。待たない。でも教養を!それが藏田の女だ。そのメッセージを伝え終えると、夕焼けとともに女たちは帰っていった。






