宮崎県西臼杵郡日之影町
宮崎県のはずれ、南北に長い県の北側で、大分県や熊本県の県境にほど近く、九州山地の一画を占める山間の町です。町といっても、その面積は277.7㎢、東京の山手線内の4倍以上です。
今年のはじめ私が訪れる前に、日之影町の役場に問い合わせたところ、宮崎空港より熊本空港から車で向かった方が近いとのでした。その言葉どおり、阿蘇山から神話の里・高千穂峡などを通るルートで2時間余り。風光明媚というよりはかなり山深いという印象でした。
山と山を繋ぐためにかけられた長い大きな橋・青雲橋を渡ってから、ぐるぐる曲がりくねった道を下った川沿いに日之影町の役場、そして廣島さんの籠が飾られている竹細工資料館があります。川といっても川底が見えるほどの浅い緩やかな流れにみえましたが、よく台風の通り道になるこの地域では、一旦上流で大雨が降ると両岸を削り取る濁流となって、幾度となく水害をもたらすとのことでした。
写真は廣島さんの生家のある樅木尾(もんぎゅう)今も、廣島さんのご親族がお住まいですが、日之影の役場からさらに山道を車で30分以上登りつめた場所にあります。視界が開けた先には山並み、そして急な山肌に整然と作られた棚田。ここだけではなく、日之影全体に拡がる棚田と堅牢な石組みの土台に建てられた家々の佇まいに、自然との長い格闘の末に学びとった人々の知恵の結晶を見るように思いました。
件の青雲橋がかかる以前の日之影はどうだったでしょう。さらにその前は。
熊本の友人が「日之影のような山間に敢えて住む人々は民度が高いのですよ。」と言っていましたが、訪れるまではその意味がはっきりとは解りませんでした。
歴史を遡れば、戦に敗れた朝鮮の王族が逃れて住みついたとも、平家の落人をかくまう場所であったとも。深い山に囲まれ外界から隔絶された環境のなかで、独特の自給自足の生活が築かれていったということでしょう。そして、その暮らしを支えるために、身近に手に入る竹を使って様々な暮らしの道具が作られていた。そして、その暮らしの形が時代を経てもつい最近まで日之影には残されていたのです。廣島さんの籠の価値にいち早く着目し、それを広めるために尽力された中村憲治さんが「あの橋がかかったら町の暮らしが一気に変わる、その前に廣島さんの籠をなんとかしなくては。」と言われていたそうです。
自然との共存であり、自然との葛藤のなかで生まれた籠、つまり廣島さんの籠はイコール日之影の暮らしそのものといえるのです。