こんにちは!
こちらの活動報告をご覧いただきありがとうございます。
僕らの体制の貧弱さを見かねた有志の方がクラウドファウンディングを立ち上げてくれました。映画実現のためにご支援いただけますと幸いです。
立嶋篤史選手の日本プロデビューから100戦目が終わりましたね。 映画の中での試合としての区切りはここまでとなります。
※試合の前後も含めたハイライトをYouTubeにアップしました。
今回はその試合後の話を。
明日更新のパート2はよく聞かれる、なぜ立嶋篤史を映画にしたいと思ったのかというのを書こうと思います。次回予告を最初にしといて、逃げ場をなくす作戦です。
ずっと応援いただいている方はよく知っていると思うのですが、立嶋さんはどんな試合結果であろうと、余程のことがない限り試合会場から自宅のある船橋まで走って帰るのです。
後楽園ホールからは25キロ。
疲れるけど、翌日からすぐに動けるようになるのと、打たれたて硬くなった箇所に血流を流すためだそうです。
グンと話は遡ります。
気づけば14年を超えていました。僕らの撮影期間は。
その最初の時に「試合や練習は足手纏いになるから、お手伝いできませんが、せめて走るのはお付き合いできそうなので、いつか試合後自宅まで走って帰る時は一緒に帰りたいですね」と話していました。
そのためにこの14年間、顔は丸くなり、体重が8キロ増えたので成果がでているかはわかりませんが、エニタイムフィットネスに通っていたと言っても過言ではありません。
これまで試合後、一緒に歩いた区間の最長は新宿から秋葉原。
今回はかねてより決めていました。
後楽園ホールから船橋までいっしょに走って帰ることを。
しかし…試合は三階級制覇王者のローキックにより、足にダメージを負い、立ち上がることができずにKO負け。
さすがに走って帰ることはできないのではと、思いました。
しかし、試合後のインタビューで魔裟斗さんから、
「今後の(選手生活としての)立嶋篤史のストーリーは?」と問われると、
「走って帰る」
立嶋さん、やる気です。いや狂気です。もはや。
※魔裟斗チャンネルでその時の様子をアップしてくれました。
とは言え。足が心配で、今回は回避してもいいのではと思っていたのです。
決して僕が船橋まで走りたくないからではありません。決して。。
すると立嶋さんは仰いました。
「内田さん、100戦目は船橋まで来てくれると思っていました」
撮影当初の話を覚えていてくれたのかはわかりません。しかし、僕も船橋まで走ることは確定しました。泣
※スタート直後、水道橋天下一品の前を通過。
長くなって仕事現場に行かなくてはいけない時間になったので、パート2へ続きます。
いきなりゴールポスト動かしてますが、予定変更してなぜ立嶋篤史を映画にしようと思ったのかはパート3にします。






