
もう、うんざりだと思ってしまった。
阪神・淡路大震災の時期になると、
同じ構造の物語が、毎年のように繰り返される。
「救えなかった救助者の苦悩」
「尊い使命感」
「忘れてはいけない記憶」
一見、とても大切で、尊い話に見える。
けれど、どうしても気になることがある。
語りの焦点が、
毎回“救助する側の苦悩”に固定されていること。
その結果、何が起きているのか。
救助者は、「背負い続ける存在」として描かれ続ける。
一方で、市民側は、「助けられる存在」のまま止まり続ける。
救助に言った方々が、
助けきれなかった命のことを、
31年経っても思い出し続けておられる・・・
その姿に胸を打たれながらも、
「そこまで救助する側に背負わせ続けていいのか」と、
私は思ってしまう。
本当に、毎年毎年、こればかりでいいのだろうか?
31年経っても、「救えなかった人の物語」だけを繰り返していて、
本当に社会は前に進めているのでしょうか?
救助に向かった消防や自衛隊、医療の方々を、
私は決して責めたいわけではない。
むしろ、
その方たちが背負わされ続けている重さのほうが、ずっと気になっている。
今の日本で多い災害は、地震だけではない。
水害、土砂災害、線状降水帯。毎年のように、「これまでにない」と
言われる状況が起きている。
そのたびに繰り返されるのが、
「もう少し早く避難していれば…」という言葉だ。
それでも、
・まだ大丈夫だと思った
・様子を見ようとした
・避難指示が出ていないから
そんな判断の結果、救助する側が、
首まで水につかりながら命がけで向かう。
これは、美談ではない。
救助する側は同じ人間、
スーパーマンじゃない!
家族がいて、日常があって、恐怖も感じる普通の人たちだ。
それなのに、「最後は誰かが助けてくれる」という前提が、
私たちの暮らしの中に、どこか残ってはいないだろうか?
私は、防災を伝える立場として、そして一人の主婦として思う。
救えなかった人の苦しみを語り続ける前に、
そもそも“救助が必要になる状況”を、
どう減らすのか?
そこを、もっと生活の言葉で語るべきではないか。
言いにくいことだけれど、
助けられなかった命のすべてが、
救助する側だけの責任だったとは、私は思えない。
逃げる判断、動くタイミング、私たち自身が選べた行動も、
確かにあったはずではないでしょうか?
早めに逃げること。
「大丈夫」と思い込まないこと。
自分や家族が、助けに行く人を危険にさらす側にならないこと。
この気持ちでみんながいなければいけないと思うのです。
このクラウドファンディングで、私がお伝えしたかったことは、
助けられる側でいるのではなく、
災害時に、できるだけ助けを必要としない人でいられるように備えること。
まずここを徹底的にやり抜く防災です。
誰かに頼ることを前提にするのではなく、
自分と家族を守れる状態をつくること。
避難の判断をできるだけ早めること。
「まだ大丈夫」という思い込みを、少し手放してみること。
家の中の危険を減らし、備えを常に暮らしの中に置いておくこと。
そういう人が増えれば増えるほど、
助けに行く人の命も守られます。
救助者の方々に「背負わせる社会」から、少しずつでも抜け出していきましょう。
31年という時間は、同じ構造を繰り返すためではなく、
次は違う行動を選ぶために使われるべきだと、私は思っています。
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まとめ
①避難情報は出ている
② 訓練も行われている
③ 備蓄をしている人もいる
それでも、
危険が迫っているのに、
「逃げる判断」と「実際の行動」に結びつかない人が、
毎回一定数出てしまっている。
その結果、
逃げ遅れが起き、
毎回のように救助が必要になる。
本来、防災は
「救助に頼らなくても命を守り抜く」ためのものです。
それが現実には、
救助を前提とした形で回ってしまっている。
だからこそ、
防災が本来担うべき
「命を守り抜く役割」を、十分に果たせていない。
危険な現場に向かい、
助けられなかった命を
救助する側が、何年、何十年も背負い続けている・・・
その構図を美談として語り続けていても、
同じ状況は、これからも繰り返されるだけだと私は思います。
防災アドバイザー岡部梨恵子




