
今回は「三龍の会」の共同執筆です。
臨床心理士の五味佐和子、精神科医の大島淑夫、能楽師の安田登です。
前回までは「土地」の話、そしてそれが「ドラゴン・ネットワーク」につながるとい話をしてきました。今回からはドラゴン(龍)そのものについてのお話しをしていきたいと思っています。
3つの世界
さて、神話や伝説に登場する「龍」、本当にいたのでしょうか。
実は「いた」ともいえるし、「いない」ともいえるのです。正確にいえば、龍のいる世界があり、そこでは龍はいまでも存在しています。
龍がいる世界、それは「間・主観的世界」です。
私たちは3つの世界に住んでいます。
・客観的世界
・主観的世界
・間・主観的世界
…です。この3つについて、まずお話ししましょう。
客観的世界と主観的世界
私たちが住んでいるひとつめの世界は「客観的世界」です。
これは「誰にとっても同じ世界」です。
いま目の前にある机もそうですし、建物もそう。コーヒーもそうですし、空の雲もそう。「物理的世界」といってもいいでしょう。
ところが、私たちはただ物理的な客観的世界だけに住んでいるわけではありません。
コーヒーを「美味しい」と感じる人もいれば、子どもなどは「苦い!」と思うでしょう。
目の前にある花を「美しい」と感じる人もいれば、何も感じないとい人もいます。ピカソの絵を「素晴らしい」と感じる人もいれば、「全然わからない」という人もいます。
同じことを言われても傷つく人もいれば、怒る人もいる。喜ぶ人だっています。
痛みもそうです。同じケガをしても、どのくらいの痛みを感じるかは、人によってまったく違います。
絶対音感のある人は、雨音にも音階を聴き、それが音楽に聞こえるといいます。骨董を見る目がある人は、私たちが目にも留めない汚れた茶碗に価値を見出したりします。
聞こえる音、見えるものすら人によって違うのです。
私たちは、ひとりひとりがまるで違う世界に住んでいるといってもいいでしょう。それが「主観的世界」です。
私たちはひとりひとりが違う「主観的世界」を持ち、「私だけの世界(主観)」の中で生きているのです。
みんなの主観が作る「間・主観的世界」
しかし、この「私だけの世界(主観)」と「誰にとっても同じ世界(客観)」の間には、もうひとつが世界があります。それを「間・主観的世界(intersubjective world)」といいます。
私だけの世界でもないし、誰にとっても同じ世界とはちょっと違う、「複数の人の主観が交流し、共有されることで生まれる、『共通の現実』」の世界、それが「間・主観的世界」です。
たとえば「朝ごはん」。
そこにある「ご飯」や「お味噌汁」、「焼き魚」、「卵」、「海苔」などは「客観(物理的存在)」です。
そして、それを食べて「おいしい!」と感じるのは「主観」です。
しかし、家族や友人たちと食卓を囲んで、みんなが「おいしいね」といって微笑み合う、その瞬間に「間・主観的世界」は生まれ、そしてそのときに感じる共有感覚が「間・主観性」なのです。
「間・主観的世界」とピダハン
そして、龍(ドラゴン)は、その「間・主観的世界」に住んでいます。
「間・主観的世界」は、私たちひとりひとりの主観を超えて「共同体」の合意や共有によって「そう見える」、「そう感じる」世界です。
「間・主観的世界」は物理的世界と同じくらいの力をもって、私たちの生活や人生、さらには生命にも影響を与えます。
アマゾンの奥地にピダハンと呼ばれる人たちがいます。
伝道師でもあり、研究者でもあるダニエル・エヴェレット博士が彼らの元を訪れたとき、ピダハンの人たちは川の向こうに《雲の上の存在、イガガイー》がいると皆で指さしていました。
しかし、西洋人であるエヴェレット博士には何も見えません。
それに対して、ピダハンの人たちには《イガガイー》の声も聞こえるし、その内容も、みな同じに聞こえるのです。
エヴェレット博士は、ピダハンがイガガイーが見えるというのも本当だし、自分が見えないというのも本当で、それを互いに完全に理解することは不可能だといいます。
ピダハンの人たちの「間・主観的世界」には精霊イガガイーがいるし、そして見えるのです(『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』 )。
私たちの周りにある「間・主観的世界」
ピダハンの人たちだけではありません。
昔の日本人は、神社に行ったり、お祭りに参加したりすると「神様を見た」という人がいました。
あるいは「幽霊を見た」という人はいまもいますし、「妖怪を見た」という人もいます。
演劇や能では、何もない素の舞台なのに「ここに川が流れている」「ここに月がある」と観客全員が感じ、それを「見ます」。
舞台美術がなくても、「ある」と感じるのは観客と演者の間・主観的な合意のおかげです。
ただの幻想ではない「間・主観的世界」
「そんなのただの幻想だよ」とか「そんなの迷信だよ」ということは簡単です。
しかし、紙幣で鼻をかんだり、トイレットペーパーのように使ったりはしません。多くの人は「できない」でしょう。これは「使えなくなるのがもったいない」からだけではありません。
紙幣は「客観的世界」ではただの紙ですが、「間・主観的世界」では大切な存在なのです。
神社のお守りやお札(おふだ)も同じです。
「神様なんて信じていないよ」という人だって、やはりお札をトイレットペーパーのようには使いません。
それはただの「合意によるお約束」だけではありません。
大谷翔平選手などのWBC日本代表選手が善光寺の「勝守」を身に着け、それが選手たちの快進撃を精神的に支えたと報じられました(NBS長野放送)。
また、アメリカの陸上選手、ノア・ライルズ選手はパリオリンピック代表選考会で、『遊☆戯☆王』のカード「青眼の白龍(ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン)」をお守りとして披露しました(ORICON NEWS)。
その他、さまざまなスポーツ選手が、お守りによってパフォーマンス能力が実際に上がっているのです。
「間・主観的世界」の存在は、ただの幻想、迷信ではなく、私たちの眠っている力を引き出してくれる世界でもあるのです。
3つの世界を観じてみる
私たちは、ふだんはひとつの世界に生きていると思っています。しかし、物理的な「客観的世界」、そして、ひとりひとり違う感じ方、考え方によって成り立っている「主観的世界」、さらに国家や家族、仲間によって共有されている「間・主観的世界」の3つのレイヤーの上で生きています。
これをじっくり、ゆっくり感じてみる、観じてみる、あるいは考えてみると、世界の見え方が変わってきます。
少しの間、時間を取って、3つの世界を観じてみるワークをしてみましょう。
客観的世界を観じる
いま、目の前に何が「見える」ますか。
どのような音が「聞こえる」でしょう。
服の中で、皮膚に「感じる」感覚、これも感じてみます。
これらに「いい、悪い。快、不快」という価値判断をせずに、ただ、見たり、聞いたり、感じたりしてみます。
ゆっくりと見まわします。ふだんは目に入らないものがあるでしょうか。「ああ、こんなものもあったのか」と気づくかもしれません。
耳を澄ませて、ふだんは聞かないような音も聞くようにしましょう。
からだの感覚もそうです。靴の中の足の感覚、椅子に乗っているお尻の感覚。また、皮膚感覚だけでなく、内臓の感覚も感じてみます。
それが「客観的世界」です。
主観的世界を観じる
今度は、それに自分なりの「いい、悪い」、「美しい、きたない」「気持ち良い、気持ち悪い」などを感じてみます。
何かを口に入れてみるのもいいでしょう。
お水をひと口、ふくみます。
「水」という物理的な存在が、「口腔」という物理的存在に触れます。飲み込むとそれは「喉」、「食堂」という物理的存在の中を降りていきます。
同時に「冷たい」と感じる。これは主観的世界です。
「美味しい」と感じる。「さっぱりした」と感じる。
これらが「主観的世界」です。
目に見えるもの、耳に聞こえる音もそのような観じてみてください。
「この花をみな美しいと思うに違いない」とは思わないでください。満開の桜、錦秋の紅葉を「美しい」と感じる人もいれば、「掃除が面倒だ」と感じる人もいるのです。
間・主観的世界を観じる
次は、自分の「主観」を共有できそうな人や、あるいはグループを思い浮かべます。「間・主観的世界」です。
目の前の花を「美しい」と感じる。その感覚を共有できそうな人を思い浮かべます。あるいはグループでもいいでしょう。
いま食べているものを「美味しい」と言ってくれそうな人やグループを思い浮かべ、一緒に「美味しいね」と言いながら食べているさまを想像します。
なんなら、電話をして「これから食事に行こう」と誘ってもいいかもしれませんね。
また、昔の日本の詩人(歌人、俳人)たちは、月を見て「いま、この月を眺めている人がどこかにいる」と観じました。それも間・主観的な共有です。
このワークをときどきすると、自分が生きている世界が豊かになるでしょう。
また、ふだんの生活の中でも、これを行うことをお勧めします。
《続きます》



