


( カルマ壁ギャラリー スズキコージ展/ マーガレットズロース1st ヒライマサヤ)
カルマの始まりの、はじまり1980年〜中野時代の終わり。そして鳥取のカルマへ
(連載7回目)
をお届けします。
◆Always美味探求/人が漁網の目のように編み、組まれ、響き合う事◆
前回まで中野の「小さな無国籍料理店カルマ」は、人を慈しむココロにキッチンが掛け合わされた温かな土壌に枝元なほみさんという旨々ゴハンの妖精だったような存在が魔法の杖を振り、音楽仲間が雨を降らせ、それが丸山伊太朗の頭の中に生まれた小さな種子を大きく育てる環境を作り上げてくれた、そして幾多の歴代腕っこきのスタッフの皆様に手を引いてもらい後ろから押してもらい時には楽しく一緒に踊って、何1つ欠けなかったからお店が成り立って来て今がある。というお話を綴ってきました。
(そんな話だったかな…?!
(*´∀`*;))
やっぱり、引っ張り出して綴られてきた自分の記憶を改めて読み返すと、すごく面白いし嬉しい。充実してる。有難い。「そんな事あったな」「ああ、あの時はそうだった」って1つの記憶に、美味しく太ったツヤツヤの濃い紫色が美しいサツマイモの蔓みたいに、沢山実っていた記憶が繋がってポコポコ出てくる。
そして「渦中に無い今だから大分忘れちゃって余裕なんじゃないの」って意見もあるかもしれないけど、そうかもしれないけど、色々あった当時「ううっ…ツライ!!どうすれば…」と思った事だってやっぱり、あって良かった。
起きない方が良かった?!そうかもしれない。
でも、永遠の名作である有名な香水だって、単体だとくっっっさい成分も入ってるからこそ沢山の人が魅せられる香りとして成立する、と言うしね。
きっと、無くてはならなかった要素なんだろうって今はお腹の底からしみじみとして、お店の隅っこで荒く砕いたブラックペッパーとお砂糖をたっぷり入れた濃いコーヒー(Σ(;´Д`)ヒエエッ!!と思ったそこのアナタ!是非やってみて笑ブラックペッパーはあっっまい味に出会うと果実っぽく大化けするよ!)を啜ったりしています。
「沢山の人が美味しい物を介しつつ化学変化的にパチパチとスパークしながら交差する場所の運営」ーーこれは本当に人生を掛けて凄く好きな事だったし、それを成立させる為に「色々な美味しい物」は絶対に多様な分野の物がいつも沢山必要だった。
無国籍料理カフェであるカルマには、今まで関わってくれた数多のスタッフのみんなが一生懸命、そして時には片手間に、楽しんで、時には揉めたり泣いたり笑ったりしながら盛り立てて、頑張って色々な美しい花を咲かせては、充実した美味しい果実として次々と成果を成してきました。
そしてそれぞれに大切な存在を得た元スタッフのみなさんは、今や大事にしたい街に根付きその街角を新たに照らす灯りとなったり、アーティストとして活躍していたりします。
かつてそんな存在に支えられ、美しい様々な色糸が精緻に組み合わされるように出来上がってきたお店の雰囲気やメニューの数々。
「ウッヒャアアアア今日は何だぁ近くでイベントでもやってるのか?!アッ!ハァーイ只今!あっコンニチワ!!いらっしゃいまっせえええ」そんな美味しい戦場みたいになってる時にはそんな事しみじみ考えられないけど「OPEN」の札を「Closed(u_u)ゴメンネ」にひっくり返して、灯りを落としてシンとしたお店の端っこ席で賄いの残りゴハンなんて食べていると「ここまで1日1日、重ねて来た事…お店が地上から無くなったら『え!?ココ何かお店やってなかったっけ。何だったっけここ?』…みたいに何1つ、無かった事になっちゃうのかな」とか思えてきちゃったりして、そうするともう内臓持ってかれそうになるほど何だかお腹がシーーーンとキューーーーンとしたりする。
中央線の「国立駅」南口から歩いて5分と掛からないトコにあった、ロージナ茶房の後ろの「国立 邪宗門」。大好きなお店でオーナーの名和さんとも仲良しになりよく通っていたし、コーヒーもこってりと濃くて凄く美味しかった。カルマのスタッフもダブルワークしてどっちでも働いてくれていたし、名和さんもスタッフからとても慕われていた。
でもある日、いつものようにコーヒーを飲みに行くとドアが固く閉ざされていた。「エッ」と思って中を覗くと、名和さんは暗い奥の席で遠い目をして煙草を吸ってた。「あっ名和さん休憩中か。邪魔したらいけないかな」…入る事を諦めてその日は帰ったんだけど、そのうち人づてに「名和さん亡くなったんだって」と聞こえてきた。
そして、あれほど大きな存在だったお店は、掻き消すように、世間から無くなってしまった。
あんなに大きな存在が無くなってしまう。でも、無くしたくない。大事な、こんなに愛おしい時間やかつての大切な存在の居てくれた証の場所なんだよ…!!お願いだよ、無くしたくはない…!!
何とか、カケラでもいいんだよ。残せないか。
お店の名前が残ればそりゃいいけど、そうでなくて「こんな感じの場所」「そこにいつもある笑顔や光」が残ればいい。
噛み締めるように、残りの日数を歩んだ中野の「小さな無国籍料理店カルマ」は、言い渡されていたビルのオーナーチェンジの時にあっけなく地上から、無くなった。
「オレが居ればそこがカルマだもん」そう言っていた。
それは、そうかもしれないけどやっぱり、やっぱりそれは強がりなんだ。
そりゃ、店主が居れば残るものは在るかもしれない。
でも、失われる事は、手のひらで掬い上げようとして指の間から零れ落ちる水のように、確かにある。
中野カルマはオープンしてからお客さんが1人も来ない日があった日々を経て、そのうち入ってくれたスタッフの頑張りや人の繋がり、お客さんになってくれた新宿駅東口の地下にお店があるビア&カフェBERGオーナーのお2人、創初期の頃にいち早く見出して通ってくれたデザイナーのヤギさんと仲間達、中野駅北口のサンプラザ近くにあった小鳥店の若い店主ご夫婦は結婚記念日には必ず来てくれていた、そして原くん(原マスミ)、大槻ケンヂさん、そしてめっちゃ通ってよくパーティーの時に使ってくれてお店の外まではみ出してズンドコどがじゃが(でも12時にはピタッと「ハイ!おしまい!」と切り上げて)飲んでくれた絵本作家のコージ(スズキコージ)さん、常連として公式認定されて、よく店主と間違われていた久島(久島宏)君、セツ生だったスガやん、ヒッピーでお父さんのモンちゃん、中野駅改札口で「お金下さい」と言ってたタンザニアの青年…沢山来てくれるようになっていった、みんなみんな、みんな…!!
ダンサーの山田せつこさんは中野に練習場があって、練習の帰りに賑わい始めていたカルマに寄って「こんなお店作りたいわ!」と言ってくれた。
そしてその時に芽吹いたタネは旦那さんの「吉祥寺まめ蔵」を経営していた南KuuKuuさんに作用して、長じては吉祥寺に「諸国空想料理KuuKuu」として花開く事になった。(その時、高山なおみをズボッと引き抜いていったけどそれはまぁそんな事もある(.^_^)弥栄!)
初期の頃に通ってくれていたお客さんであるスガやん(わたなべすがこさん)は「丸さんはセツ・モードセミナーのモデルに向いてると思う。セツ先生好きそう」と言ってくれて、セツ先生に面接を取り付けてくれた。
そんで面接行ったらセツ先生は上から下までジローリと眺めてから「ごーかく〜!」と言ってくれ、ナント40歳過ぎてから思わぬモデル活動もする事になった。そしてセツの生徒さん達が沢山カルマでアルバイトしてくれるようにもなり、俄にカルマはアーティスト満載の気配が満ち満ちるようになっていった。
そこに大阪からめぐさん(やまぐちめぐみ)がフラリとやってきて働き始めた。
そして周囲のアート濃度によって美味しいぬか床に漬かったお漬物のように美味しく漬かり始め、その内セツ・モードセミナーに通うようになり、なんとそのままドンドコ進んで行きとうとう作家になってしまった。
人の関わり。交わり、響き合い、泣いて笑って怒って眠って微笑んで、太陽と月は幾度も巡る。年月と人の気配が祈りを込めて編まれた漁網のように美しいものを掬い上げ、途方も無く重なった薄いベールのようにその場所の大気を作り上げていく。
あの確かに在った、触れそうなくらい濃かった愛おしい時間、無くなった場所を惜しむ気持ちは勿論ある。
でも、涙が乾いたらその場所を作った記憶と、握り締めた志さえ心の中にずっと強く消えなければ…またこの地上のどこへ移動しても、同じようにパチパチと美しく光が輝き、重なり合う色彩がスパークする「居場所」が作れるのではないか。
「丸さん、11月に『トットリノススメ』て言う2日間のイベントに出てパーティーでお料理作ってくれませんか」
ビルのオーナーチェンジで中野カルマが無くなる、と予告されていた薄暗い夏の終りのある日、お店のベルが鳴り響いた。元カルマスタッフである鳥取出身のカルン(赤井薫)さんからの電話だった。
「鳥取…!? て…あの…。ああ!イイねぇ!行くよ。」
何だかビックリするようなそのタイミングに、少しドキドキしていました(理由は後述)。
それから色々調べて夜行バスを予約し、愛用の蛍光イエローのどデカいトランクをお店の上の階段から降ろして鳥取に向かう算段をぽつぽつと始めたのです。
…毎度の事ながら長くなりました。
では本日はこの辺で…
この続きは、また(*^_^*)オタノシミニ!!



