【京都市伏見区】地域とお店、人と人をつなぐタウン誌をつくりたい!

2026年2月1日で、地域密着型情報サイト「まいぷれ京都市伏見区」は開設7周年を迎えます。その節目のタイミングで、伏見のまちを歩きたくなるタウン誌『伏見日和(ふしみびより)』(第2号)の発行に挑戦します。地域の人、お店、まちを愛する人たちと一緒に“伏見の未来地図”をつくる挑戦です!

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2026年2月1日で、地域密着型情報サイト「まいぷれ京都市伏見区」は開設7周年を迎えます。その節目のタイミングで、伏見のまちを歩きたくなるタウン誌『伏見日和(ふしみびより)』(第2号)の発行に挑戦します。地域の人、お店、まちを愛する人たちと一緒に“伏見の未来地図”をつくる挑戦です!

リターンの御城印『伏見城』。そもそも何故、豊臣秀吉と徳川家康の2代武将が関係しているのか、ご存じですか!?今回は、少しそのあたりを説明します。

◆指月伏見城

最初の伏見城は、豊臣秀吉が築城した「指月伏見城」(1594年)です。「指月」とは、現在の桃山泰長老町あたりで、指月の丘と呼ばれていました。しかし、1596年に伏見大地震で倒壊してしまいました。

◆伏見山伏見城

伏見大地震での倒壊後、直ちに再建され、1597年に「伏見山伏見城」が完成しました。「伏見山」とは、現在の明治天皇陵のある場所です。

しかし、その翌年1598年に、ここ伏見城で豊臣秀吉が亡くなります。その後、徳川家康が伏見城に入場し、政権掌握への基盤を作っていきます。 

ところが、関ヶ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(1600年)で、この伏見城は落城してしまいます。伏見の町は、当時の政都であったため、家康は急ピッチで伏見城を再建し、1602年に完成します。

◆江戸幕府のスタートを切った伏見城

その後、徳川家康は、ここ伏見城で征夷大将軍の宣下を受けます(1603年)。程なくして、家康から秀忠に政権が移ります。1605年に、ここ伏見城で、秀忠の征夷大将軍の宣下が行われました。

家康は、大阪の陣で豊臣政権を滅ぼしたあと、1616年に亡くなりました。その後、家光の時代に、ここ伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた後、政都としての役割を終えた伏見城は、1624年に廃城されます。

伏見城が亡くなった後、いつしか桃木が植えられたことにより、この地は「桃山」と呼ばれるようになりました。そんな経緯で、秀吉と家康の2大武将が関係している!という訳です☆

《参考情報》
『伏見城』の豆知識【前編】

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