
あの日のことを、私は一生忘れません。
母親の私より、3歳の子どもの方が、息子の気持ちをわかっていた日です。
「だいちゃんは、車の鍵を持ちたいんだよ」
~3歳の子どもに見えていて、母親の私に見えていなかった世界~
「だいちゃんは車の鍵を持ちたいんだよ」
夕方の保育園の玄関で、私はハッとしました。
息子・だいちゃんは、言葉を話せません。
なかなか帰りたがらない息子に対し、
「まだ遊びたいのかな?」「イヤイヤ期かな?」と、
理由を探しながら、少し心がざわついていました。
正直、早く帰りたかったのも本音で、困り果てていました。
そんな時、その場を通りがかった、息子と同じ3歳クラスのお友達が、
私の顔を見て不思議そうに言ったのです。
「違うよ? だいちゃんは車の鍵を持ちたいんだよ」
まさか、と思いました。
私は母親です。当時の私は、誰よりも息子のことを理解していた“つもり”でした。
半信半疑で車の鍵を差し出すと……だいちゃんは、小さな手でそれをぎゅっと握りました。
だいちゃんの大好きな、鍵のカチャカチャする小さな音。
その音と同時にだいちゃんの表情がふっと緩み、
何事もなかったかのように、鍵を振ってカチャカチャ音を鳴らしながら、
満足気に歩き出したのです。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと掴まれて
「ああ、私は全然わかっていなかったんだ」と、心の中で静かに白旗を上げました。
私はいつの間にか、“大人として正しい見方”というフィルター越しに、
「ちゃんとスムーズに連れて帰らなきゃ」
「母親なんだから、わかってあげなきゃ」
そんな気持ちで息子を“見ているつもり”になっていました。
でも子どもたちは、正しさでも、経験でもなく、余計なことを一つも考えず、
ただ、目の前にいる”だいちゃん”の気持ちを見ていただけだったのです。
「本質」を何気なく、当たり前に見抜くかのように......。
■ 「医療的ケア児」というレッテルを剥がしてくれたのは、子どもたちでした
だいちゃんは、出生時1,790gの低体重で生まれ、
「医療的ケア児」という言葉を最初に背負わされました。
チューブなしでは栄養が摂れず、
「一生、口から食べることはできないかもしれない」
と告げられて、絶望の淵にいたこともあります。
周りからは、
「大変だね」「かわいそうだね」「お母さん無理しないでね」
そんな言葉もたくさくかけられました。
優しさだとわかっているのに、
そのように「医療的ケア児」というレッテルを貼られたことで、
息子の未来が少しずつ狭められていくように感じられ、
当時の私は、先の見えないトンネルの中にいるようでした。
しかし、保育園の「仲間」たちは違いました。
彼らにとって、だいちゃんは「医療が必要な制限のある子」でも「障害のある子」でもなく、
ただの仲間としての「だいちゃん」でした。
「どうして今日は来ないの?」
「なんでチューブがあるの?」
「なんで先に帰っちゃうの?」
子どもたちは、知りたいことを素直に問い、納得すると、当たり前にように受け入れました。
そんな環境の中、彼らに囲まれて過ごすうち、だいちゃんの中に強い想いが育まれていきました。

「お友達と同じようにやりたい」
その当たり前の願いが、大人の常識では測れない奇跡を生み出しました。
かつては”一生涯、不可能かも”と言われた「口から食べること」や「歩くこと」を、少しずつ、現実のものにしていったのです。
それは、決して劇的な出来事ではありませんでしたが、
「仲間と同じことをしたい」
「自分のことを素直に応援してくれる仲間たちにこたえたい」
「みんなと一緒に遊びたい」
そんなまっすぐな思いが、時間をかけて現実を動かしていった日々でした。
そして遂に、卒園前に医療的ケアを卒業するという奇跡を成し遂げました。
その歩みを見守って下さっていた主治医も、
「健常な子どもたちと関わることの大きな可能性」に、確かな評価を与えてくれました。
■ なぜ、学校に上がると「分断」が生まれてしまうのか
~でも、きっと私たちは、つながり直せる~
保育園や幼稚園で、毎日一緒に笑い、泣き、育ってきた子どもたち。
「明日も一緒だよね」と自然に思えていた日々。

けれど学校に進むと、少しずつ環境が変わり、同じ時間を過ごしていたはずの仲間たちが、制度や仕組みによって、別々の道を歩き始めます。
「だいちゃん、どうして学校変わっちゃうの?」
お別れの日にクラスメイトが流してくれた大粒の涙と小さな手のぬくもりを、私は今も忘れられません。
そしてもう一つ、心に残っている光景があります。
それは、子どもたちと向き合う先生たちの姿です。
本当は誰よりも、子どもたちの可能性を信じ、一人ひとりの成長を願っている先生たち。
けれど現実には、忙しさや制度の複雑さ、
そして「失敗できない空気」の中で、本来の想いを十分に発揮できずにいる姿も少なくありません。
さらに近年は、メディアやSNSを通して、学校や先生の一部分だけが切り取られ、
誤解や不安が広がってしまうことも増えました。

その結果、保護者は「ちゃんと守れているだろうか」と不安になり、
先生は「どう見られるだろう」と身構えてしまう。
本当は同じ方向を向いているはずなのに、
知らず知らずのうちに、心の距離が生まれてしまってはいませんでしょうか?
けれど、忘れたくないことがあります。
それは、子どもたちを想う気持ちは、保護者も、先生も、みんな同じだということ。
「よりよい環境で育ってほしい」
「安心して笑ってほしい」
その願いは、決して対立するものではありません。
だからこそ、今、必要なのは誰かを責めることではなく、もう一度、対話を始めること。
不安を言葉にし、想いを聴き合い、
「一緒に考えよう」と手を取り合うこと。
子どもたちは、大人が信じ合う姿から、人とつながる力を学んでいきます。
——分断ではなく、対話を。
——不安ではなく、共に支え合う関係からの希望を。
■ もう一度、大人が「子どもの叡智」に学ぶ社会へ
あの日、車の鍵の本当の意味を教えてくれた、あの子のように。
大人が失ってしまった「本質を見る目」や「ありのままを受け取る心」
そして「ワクワクする心」を、もう一度取り戻したい。
そのために、私は多様な立場の仲間たちと共に「えんぱれ」を立ち上げました。
私たちは、制度や立場を超えて、先生も、保護者も、地域の人も、
そして子どもたち自身も「仲間」としてフラットに語り合える場を作ります。
先生が犠牲になる教育ではなく、先生自身がワクワクできる学校へ。
大人が決めた枠に子どもを当てはめるのではなく、子どもの叡智に、大人が学ぶ社会へ。
だいちゃんと、だいちゃんが関わる子どもたちが教えてくれた、
言葉を超えたつながりと可能性を、
日本の教育の「新しい当たり前」にするために。
どうか、皆さんのお力を貸してください。




