
俺と82歳のカマキリと、83歳の誕生日ケーキ今日、テニスコートに現れた先輩を見て、俺は思わず二度見した。「先輩…そのメガネ、カマキリですか?」。明日で83歳を迎えるあの大先輩が、シャープなフレームの新しいメガネをかけて、颯爽と現れたのだ。そのメガネが、見事に昆虫のそれ。82年間生きてきて、最後の最後にカマキリになった男。しかも、本人はまったく気にしていない。それどころか、どこか誇らしげだ。さすがだ。俺の牛すじを食って「肉肉しい!」と唸った男は、メガネ一つでも只者ではなかった。「明日、誕生日なんだよな」。先輩がそう言って、カマキリのメガネ越しに俺を見た。その目が、なんとなく「ケーキ、期待してるぞ」と言っているように見えた。気のせいかもしれない。でも、俺にはそう見えた。「お、じゃあケーキでも買ってくるか」。そう思ったのが、間違いの始まりだった。明日から3連休。街のケーキ屋から、甘いものがごっそり消える日だ。案の定、近所の店を何軒か回ったが、ショーケースはすっからかん。「予約でいっぱいです」なんて、つれない言葉が返ってくるだけ。そりゃそうか。みんな、考えることは同じだ。ちぇっ、ついてねえな。そう思って、一瞬、諦めかけた。でも、すぐに思い直した。あの人が、83歳の誕生日を、ケーキなしで迎える。その光景が、どうにも寂しく思えたんだ。カマキリのメガネをかけた先輩が、ケーキなしで誕生日を迎えるなんて、そんな絵は描けねえ。「しゃあねえ」。誰に言うでもなく呟いて、俺は車のキーを掴んでいた。隣町まで、ひとっ走りだ。大したことじゃねえ。俺がやりたいから、やってるだけだ。誰かに頼まれたわけでも、義理があるわけでもない。ただ、あの人が喜ぶ顔が見たい。それだけだ。料理を作るときと、何も変わらねえ。「料理のポイントは愛だ」なんて偉そうなことを言っちまった手前、ここで引き下がるわけにはいかねえだろ。隣町のケーキ屋は、奇跡的にまだいくつかホールケーキが残っていた。派手なやつは、あの人には似合わねえ。じっくりとショーケースを眺めて、一番シンプルで、だけど美味そうな、フルーツが乗ったやつを選んだ。これなら、あの人も文句はねえだろう。帰り道、助手席に置いたケーキの箱が、やけに誇らしく見えた。たかがケーキ一つ。されどケーキ一つだ。この箱の中には、俺の自己満足と、あの人への尊敬の気持ちが詰まってる。明日、このケーキを前にして、あの人はなんて言うだろうな。きっと、カマキリのメガネをかけたまま、こう言うに決まってる。「甘甘しい(憎々しい)!」。最高の笑顔で、そう言ってくれるはずだ。83歳、おめでとうございますよ、先輩。俺のケーキ、馬いか?
明日、素直に俺の気持ち伝えられるといいなぁ



