
深夜二時。 窓ガラスをびっしりと覆う水滴が、外のネオンを滲ませては幾筋もの光の線を流していく。
ここは都内の出版社、第三編集部。
ヤニで黄ばんだ壁紙と、沈殿するタバコの煙、そして絶え間なく鳴り響くタイピングの乾いた音が、この密室を巨大な野戦病院のように仕立て上げていた。
私はデスクの隅で、冷え切った缶コーヒーの底をこめかみに強く押し当てた。 「水野、この赤字直しておいて。朝イチで印刷所戻すから」
背後から投げ捨てられた校正紙(ゲラ)の束が、どさりと音を立てて山積みの書類の上に崩れ落ちる。
「……はい。すぐやります」
ひび割れた唇を舐め、私は明滅するパソコンのモニターへ再び向き直った。
出版社に入れば、彼の一番近くにいられる。そう信じて疑わなかった。
彼はいつか必ず、作家としてデビューする。
あの繊細で、時折ひどく残酷なまでの透明感を持つ彼の言葉たちが、この雑音だらけの世に出ないはずがない。
その時、彼の原稿を一番最初に受け取るのは、私でありたい。
彼が命を削って生み出した物語に、私が「編集者」として伴走し、一冊の美しい本に仕立て上げる。そして、一番綺麗な装丁のそれを、私の手で彼に渡すのだ。
そんな途方もなく重く、狂気じみた私の「愛の計算」が、私をこの地獄へと突き動かした。
けれど、現実は計算を遥かに超えて無慈悲だった。
来る日も来る日も他人の粗削りな文章を削り、気難しいライターに土下座し、理不尽な締め切りという名の泥濘を這いずり回る日々。
彼に見せるためにあんなに時間をかけて選び抜いた、計算ずくの戦闘服(スーツ)は、今や汗と埃にまみれた重い枷となり、丁寧に仕込んでいたはずの「隙のないメイク」は、徹夜明けの脂でドロドロに崩れ落ちている。
ふと、スーツのポケットの奥で、骨を伝うような低い振動を感じた。
『ジーッ、ジーッ』
弾かれたように引き出しを開け、傷だらけになった二つ折りの携帯電話を引ったくる。 親指でパカッと開いた小さな液晶画面。
緑色の無機質なバックライトが、暗いデスクの下で私の青白い顔を照らし出す。 そこには、たった一行。
『着信アリ:1件』
彼からの、不在着信。
「……っ」 息を呑むと同時に、喉の奥から鉄の味がした。
無意識のうちに、口の中の粘膜を強く噛み破っていたらしい。
あと五分、いや、三分早く気づいていれば。あの無駄な電話応対を後回しにしてさえいれば、彼と話せたのに。
彼がいま、どんな声をして、どんな夜の空気を吸いながら私に電話をかけてきたのか、知ることができたのに。
液晶画面に表示された彼の名前を見つめていると、ささくれ立った心に一滴の甘い蜜が落ちたような温かさが広がる。
しかし次の瞬間、電話に出られなかったという激しい悔しさが、黒い泥のように胃の底から這い上がってきた。 今の私は、彼に声を聞かせられるような状態じゃない。余裕なんてなくて、彼を惹きつけるための「大人の女の鎧」は、どこにも見当たらないのだから。
*
「水野、これ来月の巻頭特集。お前に責任者(デスク)任せるから」
翌朝。容赦なく差し込む蛍光灯の白い光の下で、副編集長が分厚い企画書をドンと私の前に置いた。 入社して初めて任される、大きな企画。普通なら飛び上がって喜ぶべき栄転だ。ここで結果を出せば、文芸の単行本編集部への異動も見えてくる。彼を迎え入れるための、私の緻密な城づくりが、また一歩前進するのだ。
「……ありがとうございます。必ず、やり遂げます」
私は、胃酸の込み上げる感覚を無理やり飲み込み、完璧な作り笑いを浮かべた。 やらなきゃ。頑張らなきゃ。すべては、彼のために。
しかし、その日を境に、私の「変調」ははっきりと輪郭を持ち始めた。
最初は、ただの立ち眩みだった。
それが次第に、紙の匂いを嗅いだだけで猛烈な吐き気が襲うようになった。
ゲラ刷りの上に並ぶ明朝体の活字が、まるで黒いゲジゲジのようにうごめいて見え、赤ペンを握る右手が痙攣して止まらなくなる。
眠らなければいけないのに、泥のようにベッドへ倒れ込んでも、脳の裏側で印刷所の輪転機が回るような「ゴウン、ゴウン」という轟音が鳴り響き、一睡もできない夜が続いた。シャワーを浴びれば、ごっそりと抜け落ちた髪が排水溝を黒く染めた。
そして何より私を狂わせたのは、四六時中、ポケットの中で携帯電話が震えているような錯覚——
「幻振動(ファントム・バイブレーション)」だった。
会議中にも、トイレの中でも、満員電車の中でも。
『ジーッ、ジーッ』
そのたびに私は血相を変えて携帯電話を開く。
しかし、そこには何の着信履歴もない。
彼からの連絡を渇望するあまり、私の神経はついに幻覚を作り出すようになってしまったのだ。携帯のプラスチックの感触が、まるで皮膚の下に埋め込まれた異物のように、私を内側から蝕んでいく。
*
土砂降りの雨の夕方。
入稿作業のトラブル処理を終え、私は誰もいない地下の資料室で、冷たいコンクリートの床にうずくまっていた。
カビと古い紙の匂い。換気扇の回る低い音だけが、耳鳴りのように響いている。限界だった。体は鉛のように重く、視界の端が黒く欠け始めている。
その時だった。
『ジーッ、ジーッ』
まただ。 どうせまた、私の狂った脳が作り出した幻だ。
無視しようとした。目を閉じて、膝を抱え込んだ。
けれど、震えは止まらない。物理的な重みを持ったその振動が、太ももの皮膚を正確に叩き続けている。
這うようにしてポケットから携帯を取り出し、ゆっくりと開いた。 薄暗い資料室の中で、緑色のバックライトが眩しく光る。
『着信:彼』
幻じゃ、ない。 本当の、彼からの電話だ。
「……あ」 ひゅっ、と喉が鳴った。
通話ボタンを押そうと、親指を伸ばす。
しかし、その親指が空中で完全に硬直した。信じられないほど小刻みに震え、わずか数ミリ先のボタンに届かない。
——もし今、彼が出て、
「どうしたの、声が変だよ?」と聞かれたら?
——ボロボロにすり減った今の私の惨めな姿を、この掠れた声色から悟られてしまったら?
資料室の黒塗りの窓ガラスに、一人の女の顔が映っていた。
目の下にはどす黒いクマが張り付き、髪は乱れ、頬は痩せこけ、幽鬼のように虚ろな目をした女。それが、今の私だった。
「大人の余裕」なんて微塵もない。
緻密に計算された「完璧な女」の面影など、どこにもない。
呼吸が、できない。 過呼吸の発作が起き、酸素が肺に入ってこない。手足の先から急速に血の気が引き、痺れが這い上がってくる。
出たい。声が聞きたい。今すぐ彼に「助けて」と泣きつきたい。
でも、できない。私は彼を導く、完璧な編集者でなければならないのだから。彼を失望させるくらいなら、死んだほうがマシだ。
『ジーッ、ジーッ』
無機質な緑色の光が、私の歪んだ顔を残酷に照らし出し、やがてふつりと途絶えた。 画面は「不在着信」の文字を残して真っ暗になり、資料室は再び静寂と暗闇に包み込まれる。
「……あぁ……っ、ああぁっ……!」
声にならない嗚咽が、コンクリートの壁に反響した。
私は真っ暗になった携帯電話を胸に強く抱きしめ、冷たい床に顔を押し付けて泣き崩れた。 彼のために着込んだはずの重い鎧が、今は私自身の息の根を止めようとしている。それでも私は、この鎧を脱ぐことができない。
自らが組み上げた緻密な愛の計算式に、私自身が押し潰されていく。
地下室の天井越しに響く鈍い雨音に混じって、彼に会いたいというどうしようもない絶望だけが、私の体を静かに、確実に蝕み続けていた。
過呼吸は一向に治まる気配を見せなかった。 私は、呼吸さえ満足にできなくなっていた。
冷たいコンクリートの床に這いつくばり、口を大きく開けて必死に酸素を求めようとするのに、喉がひゅくひゅくと痙攣するばかりで、空気さえ取り込めない。視界の端から黒い染みが広がり、意識の輪郭がドロドロと溶け出していく。
限界を超えた身体が、ついに決壊した。
こんな沈没寸前の身体から、ネズミたちが我先にと逃げだすように、激しい吐き気が内側からせり上がってきた。
「……ッ、げほっ……ぁ、あ……!」
胃の底から込み上げる激しい痙攣と共に、何度も嘔吐を繰り返す。 けれど、ここ数日まともに食事すら摂っていなかった胃には、もう吐き出すものなんて何も残っていない。ただ苦い胃液が喉を焼き、幾重にも塗り重ねてきたはずの私のプライドを、ボロボロになったスーツを、無惨に汚していくだけだった。
指先から体温が消えていく。 私はもう、このまま「人間」として存在できないのだろう。 彼を導く完璧な編集者でも、大人の余裕を持った女でもなく、ただの惨めな肉の塊となって、この埃っぽい地下室で朽ちていく。 自嘲する気力すら湧かない。ただ、薄れゆく意識の中で、ぼんやりとそう思っていた。
——その時だった。
ガンッ、ガンッ、ガンッ!!
突如、鼓膜を破るような激しいノックの音が、密室のコンクリートに反響した。 ビクッと肩が跳ねる。
誰? こんな時間に。 返事をする声すら出せない私の沈黙を裂き、重い鉄のドアが、軋むような音を立てて乱暴にこじ開けられた。
「——栞!!」
廊下から差し込む蛍光灯の白い光が、刃のように暗闇を切り裂いて床を這い、這いつくばる私の無様な姿を容赦なく照らし出した。
逆光の中に、ひとりの男のシルエットが立っていた。
ひどく雨に濡れた髪。傘も差さずに走ってきたのだろう、水滴が顎をつたい、肩で激しく息をしている。
その輪郭を網膜が捉えた瞬間、止まりかけていた私の心臓が、肋骨を砕くほどの勢いで跳ね上がった。
幻覚だ。また私の脳が狂ったんだ。
だって、そんなはずがない。彼がここにいるはずがない。
けれど、床にうずくまる私を見下ろし、息を呑んだその瞳は、幻覚よりもずっと生々しく、痛いほどの熱を帯びていて。
この世界で、誰よりも、もっとも会いたい人が。
私が一番見せたくなかった、最も醜く、鎧を剥ぎ取られたこの絶望の底へ——
真っ直ぐに、ドアをこじ開けて入ってきたのだ。





