私が自分のことを「ひょっとして私、重い……かも?」と自覚し始めたのは、まだ高校に通っていた頃に遡る。ある日の放課後、校門近くでのこと。 前を歩いていた彼に向かって、なぎがものすごい俊敏さで駆け寄り、小さなラッピング袋を押し付けているのを目撃した。その時のなぎの身のこなしは、まさに「猫」そのものだった。 いや、ただの猫じゃない。あれは私の平穏を脅かす「泥棒猫」の動きだ。 そう直感した私は、気づけば足早に彼に詰め寄り、半ば強引に彼を問い詰めていた。(今思えば、付き合ってもいないのに一体何様だったのだろう)「なにそれ」 「あ、いや、なぎから……」私は彼の手からクッキーを奪い取ると、躊躇なく一口かじった。 誤解しないでほしいが、決して食べたかったわけではない。これはあくまで敵の戦力分析だ。サクッ、と音を立てて崩れたそれは……甘かった。 そして、いかにも市販のミックス粉で作りましたというような、大味で拙い手作りの味。その瞬間、私の中で冷たい炎が燃え上がった。 『これなら、私は勝てる』私はその足でホームセンターへ直行し、ありとあらゆるプロ用の製菓器具を買い漁った。ボウル、粉ふるい、デジタル温度計、シルパット。高校生の小遣いを一瞬で溶かす、それはもう異常な執念だった。翌日の休日は、丸一日キッチンにこもった。 1グラムの狂いも許さず計量し、バターの温度を徹底的に管理する。鬼の形相で生地を練る私を見て、母が呆れたように声をかけてきた。「なに、急に嫁入り修行?」「っ……!!」 表面上は「ただのお菓子作りだけど」とクールに返したものの、私の脳内では『嫁入り』という甘美な二文字が、エコーを伴って無限にリフレインしていた。(危なくボウルを落としそうになった)そして迎えた月曜日。 徹夜の末に錬成された、芸術品のようなクッキーを彼に差し出した。 彼は一口食べると、目を丸くして歓喜の声を上げた。「うまっ!! なにこれ、どこのお店で買ったの!?」(…………やりすぎたーーーーっ!!!)私は、見えない巨大なハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。 プロのクオリティに近づけることを追求しすぎた結果、一番大切な「女の子の手作り感」を完全に消し飛ばしてしまったのだ。これでは、ただの「美味しい高級クッキーを買ってきて配る謎の同級生」ではないか。「……うん。適当に作ったから、別に残してもいいけど」私は必死に無表情を作ってそう言い残し、足早に立ち去った。 あれは大失敗だった。その日の夜、私の脳内では緊急懲罰会議が開催された。 議題は『なぜ手作りの温もりを排除してしまったのか』『いくら美味しくても、あれでは隙がない!』 『やはり、少しは不慣れで「かわいい余白」を残す必要があるのではないか!』完璧であろうとする自分を糾弾し、いかにして「計算された不器用さ(かわいい余白)」を演出するかを真剣に議論するという、ひどく矛盾した会議。あの頃から私の愛は、どうしようもなく重く、そして空回りし続けていたのだ。あの手作りクッキー大失敗事件から、少しの季節が巡った。制服という最強の鎧を脱ぎ捨て、少し所在ない春休みの午後。窓から差し込むうららかな春の陽気にまどろみながら、ベッドでゴロゴロと雑誌をめくっていた私のスマホが、不意にブルッと震えた。一人暮らしにもなれ、すこし余裕も感じられる頃。画面に表示された文字を見て、私の呼吸がピタリと止まる。『明日、ちょっと買い出し付き合ってくれない?』彼からのメッセージだった。 画面を見つめる私の顔は、おそらくシベリアの永久凍土のように冷たく、凪いでいたはずだ。私は無表情のまま画面を数回タップし、極めて事務的に『いいけど。何時?』とだけ返信した。・・・・・余裕はどこにいった? 数秒後、『10時に駅で!』と、彼の性格そのままのシンプルな返信が来る。「……よしっ!!」私はスマホをベッドの奥深くに放り投げ、両手で渾身のガッツポーズをした。もしここにバレーボールのネットがあれば、間違いなく実業団レベルの完璧なアタックが決まっていたはずだ。買い出し? 違う。彼と私、二人きり。これは紛れもなく「デート(仮)」である。 その瞬間、私の頭の中でけたたましいエマージェンシー・サイレンが鳴り響き、緊急脳内会議が招集された。【議題:明日の勝負服(※あくまで買い出しを装うこと)について】脳内の重厚なマホガニーの円卓を囲むのは、3人の私。議長・栞(クールな表層)が、コンコンとペンで机を叩いた。 「落ち着きなさい、諸君。明日はあくまで『日用品の買い出し』です。ここで気合いを入れすぎれば、『買い出しごときで張り切ってる痛い女』の烙印を押されます。テーマはあくまで『たまたま近くにいたから来ました』感。以上」戦略家・栞(データと計算の鬼)が、キラリと光る眼鏡を押し上げる。「甘いですね、議長。明日の気温は24度、南南西の風3メートル。訪問予定のホームセンターは駅から徒歩15分です。歩きやすさを考慮しつつ、彼との身長差15センチを活かして上目遣いを誘発するため、ヒールは3センチがベスト。また、心理学的に『守ってあげたい』と思わせる淡い寒色系の投入を推奨します」情熱の栞(愛が重すぎる本音)が、バンッと机を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。 「馬鹿言ってんじゃないわよ! デートよ!? 二人きりなのよ!? なぎがいないこの千載一遇のチャンスに、私の女としての魅力をヤツの網膜に焼き付けるべきでしょ! 先月買ったあの背中がガッツリ開いた黒のワンピース! あれでいくわ!!」「却下!!」 議長と戦略家が同時に叫んだ。「白昼のホームセンターに背中丸出しの女がいたらただの不審者よ!」と議長が嗜める。 「それに、黒はなぎのパーソナルカラー(明るい原色)との対比としては強いですが、親しみやすさに著しく欠けます!」と戦略家も続く。しかし、情熱の栞も食い下がる。 「じゃあどうするのよ! いつもみたいなスキニーパンツじゃ、ただの友達止まりじゃない! 鎖骨! せめて鎖骨と手首、足首の『3つの首』は確実に出していきなさいよ!」「……一理あります」 戦略家が顎に手を当てて頷いた。 「風速3メートルを利用し、歩くたびにふわりと揺れるシフォンスカート。トップスはVネックで鎖骨を強調。しかし色はあえて無難なネイビーにし、清楚さと『隙』を意図的に演出しましょう。香水は手首ではなく、すれ違った時にだけふわりと香るよう、膝の裏にワンプッシュ」「それよ!! 完璧!!」 「……まあ、それくらいなら『気合い入ってる感』は誤魔化せるわね」脳内会議は全会一致で可決された。 しかし、現実はそう甘くない。「……丈が違う。風になびかない」 「トップスのVが浅い! もっと! もっと鎖骨のラインを!」 「色が微妙に顔色に合わない! 却下!」気づけば深夜3時。 春の夜風が吹き込む私の部屋のベッドの上には、エベレスト級の服の山が築き上げられていた。 何度も着替えては鏡の前に立ち、一人でターンを決めて風の抵抗を確かめる。結局、私が「究極の無造作(に見せかけた緻密な計算の結晶)」のコーディネートを完成させたのは、窓の外の空が白み始め、遠くでスズメがチュンチュンと鳴き始めた頃だった。——翌朝、10時。駅前。春の穏やかな日差しが、ロータリーのタイルの上をキラキラと照らしている。「ごめん、待った?」少し息を切らしながら駆け寄ってくる彼を見て、私の心臓はけたたましく跳ねた。寝不足で頭はフラフラするし、計算通り南南西の風は吹いているものの、膝の裏の香水がちゃんと香っているか気になって仕方がない。けれど私は、心の中の巨大なハリセンで自分を落ち着かせ、彼に向かってふっと涼しげに微笑んだ。計算し尽くされた角度で髪を耳にかけながら、口を開く。「ううん、私も今来たとこ。……別に暇だったし、早く行こ」本当は朝4時からメイクとヘアセットの準備をして、駅には90分前に着いて、彼がどのルートから来ても一番美しく見える立ち位置を検証していたことなんて、絶対に死んでも知られてはいけない。そんなの、ただの重い女じゃん。 違う、私は重くない。気をつけてる。 しいて言うなら、そう、私は「想い女」だ。重いんじゃない、想いが深いだけ。そんなイタい自己弁護を脳内で展開しながら、私は彼に気づかれないように深く息を吸い込み、春風とともに歩き出した。




