周りで働くカンボジア人(その中でもあまり仕事や生活がうまくいっていない人達)と話している時によく言われる言葉で印象に残っている言葉があります。
“Because you are Japanese.”
「だって、日本人だもんね」
ぼくはこの言葉に「羨望」と「嫉妬」2つのニュアンスを感じ取っています。
「君は日本人だからお金もあるし、ちゃんとした教育も受てるもんね。私達とは違うもの。
自分達は貧乏だし、シンが持ってるような物も到底買えない。
君は日本に生まれてラッキーだよ。」
こんな事を言われたことが、何度もあります。
いつも答えに戸惑っていたのですが、その時に、
「いやでもおれ中卒やで。君と一緒。学校行ってへんで〜」と言うと、
「え、日本人なのに!?」
とみんな結構びっくりします。
日本にそんな人いるの?みたいな顔で、目をまん丸にして驚きます(笑)
でもその後くらいから、普段の何気ない話でも明らかに今までとは違う目、違う雰囲気でしっかり話を聞いてくれるようになった、という経験が今まで何度もありました。
思い過ごしではないと思います。
「この人も自分と同じ」
どっかでそんな風に思ってくれたから、見方が変わったんじゃないかなと思うんです。
ぼくがこのプロジェクトでやりたいのは、そういうことなんです。
そもそも自分自身に劣等感を持っている人は、上からだろうが同じ目線に立ってくれようが、まともな人にまともな事を言われても入ってこない。
自分とは違う人たちだから。
でも、同じ感覚を持った人の言葉だったらスッと入ってくる場合がある。
社会には一定数、必ず落ちこぼれがいる。
本気でやれば、何だってできるし、何にだってなれる。
そういうことを落ちこぼれの自分が身をもって示したい。
ぼくだって、わたしだってやれる!って思って欲しい。
カンボジアにもエリートはいるから、そういう人たちはどんどん良い教育を受けて欲しい。
でも、社会からこぼれた人間の行き場所がなくなったらダメだと思うんです。
これはカンボジアだけじゃなく、ここまで多様化した世界、学校や会社に居場所がなくたって、馴染めなくたって、きっと、いや絶対どこかに居場所はある。
ちゃんとした学校や会社が100個あるとしたら、そのうちの1個くらい僕たちみたいな奴らがいてもいいと思う。
学校でもない、工場でもない、そんな居場所があってもいいはず。
カンボジアには体系的に学べる素晴らしい学校や職場がたくさんあります。
それをわざわざ僕達が新しく作る必要もなければ、作る能力もありません。
でも自分達だからこそできる事をはっきり見つけました。
しかも、自分達の得意な事で。
だからやってみたいんです。
カンボジアは戦後何十年経って、沢山の人が学校を建ててくれたり、教育や産業に力を注いできてくれたおかげで次のフェーズに来ていると思います。
僕たちは自分たちの持っているものとしてたまたま「ものづくり」というものだったけど、パソコンや経理の学校があってもいいし、メイクやネイルなど美容の専門学校があってもいい。
ダンスやアートやスポーツの学校があってもいいし、メカニックや漫画家育成の学校があったっていい。
世界はもっと豊かであるべきだ。
どこにどんな才能が眠っているかわからない。
好きなことを見つけて、誰もがそれに挑戦できる社会を作るべきだ。
貧しい家庭に生まれたからって、選べないなんておかしい。
持っている才能に気づかないまま死ぬなんてもったいない。
生きる為だけに仕事をするような状況から、這い上がって何かを掴む。
厳しい状況にいる人間ほどハングリーだし、
学ぶ意欲はいつだって
「え、なんで?」の純粋な好奇心と、「あ、そうか!」の知的興奮からくると思う。
10代の頃、脳みそがシビれるくらいに影響を受けた音楽やアート。
時代を揺るがすようなカルチャーは、いつだってそんな状況下から生まれていたし、そういう奴らが作ってきた。
何もない何もないって言われているカンボジアから出てきたっておかしくはない。
金持ちだろうが貧乏だろうが中卒だろうが一流大卒だろうがストリートチルドレンだろうがボンボンだろうが平等にある「時間」というものをBETすれば手にできるチャンス。
どこで生まれたとか、なに人とか、右も左も白いも黒いも関係ないよ。
いつだって世界を変えるのは「絶対にできる」って信じてる奴らだけだから。