
~『倭霊異記』のシナリオについて~
子どものころに聞いた昔話を、思い出してみてほしい。
鶴は機(はた)を織り、狐は人の妻となり、狸は茶釜に化けて綱渡りをした。そこに出てくる怪異たちは、退治されるためだけにいたのではなかった。彼らは人の暮らしのすぐそばにいて、ときに恩を返し、ときに約束を交わし、ときに正体を知られて去っていった。物語の終わりに残るのは、勝った喜びよりも、少しの寂しさだったように思う。
『倭霊異記』のシナリオを書いていて、気づけば私は、いつもその寂しさのほうへ筆を向けていた。
「あわい」という古い言葉がある。物と物とのあいだ、境目のことをいう。
昔の人は、怪異が現れるのはいつもあわいだと考えていた。昼と夜のあわいである夕暮れを逢魔が時と呼び、此岸と彼岸のあわいである川や橋には、何かが棲むと信じた。家の内と外を分ける戸口、村と山を分ける峠、生と死を分ける野辺。人の世界がほつれかけたところに、人ならざるものはふと顔を出す。
『倭霊異記』のシナリオの舞台も、どれもそうしたあわいにある。川べりの淵、都のはずれ、山の奥、夜の戸口。冒険者たちはそこで、人の理(ことわり)が通じなくなる手前の場所に立つことになる。
このシナリオに出てくる怪異は、善でも悪でもない。彼らは、人とは違う理屈で生きている隣人である。
ある怪異は、交わした約束を一字一句たがえずに守る。守るからこそ、約束を忘れた人間を許さない。ある怪異は、自分が何者であったかを、誰かに呼んでもらうのを待っている。ある怪異は、帰る場所を探して、毎晩同じ道を歩いている。彼らの振る舞いは人の目には恐ろしく映るけれど、その理屈を知れば、恐ろしさの奥に、ひどく人間くさいものが見えてくる。
そして多くの場合、あわいを踏み越えたのは、怪異ではなく人間のほうだ。約束を忘れたのも、名を奪ったのも、境目を掘り崩したのも、人である。怪異たちは、その綻びからこちら側へ滲み出してきたにすぎない。
だから、このシナリオの冒険者たちは、太刀を抜く前に考えることになる。目の前のものは何を求めているのか。なぜここにいるのか。そして、自分たちはこのものと、どれだけの距離を取るべきなのか。
もちろん、太刀を振るう場面もある。弓を引き絞り、呪を唱え、命がけで怪異と渡り合う夜もある。『倭霊異記』は、侍も陰陽師も山人も、存分に腕を振るえるゲームとして作っている。
けれど、戦いの決着がそのまま物語の結末になるとは限らない。勝ったはずなのに胸が痛むこともあるし、刃を収めたことで、思いもよらない救いが訪れることもある。どのあわいで立ち止まり、どちらへ一歩を踏み出すか。それを決めるのは、卓を囲むあなたたちである。
遊び終えたあと、帰り道の川べりや、夕暮れの戸口が、少しだけ違って見えたなら。そこに何かがいるような気がして、ふと会釈をしたくなったなら。これらのシナリオは、きっとあなたの卓に届いたのだと思う。
あわいに立つ物語へ、ようこそ。



