
小学生の頃、風邪をひいて寝込んでいたことがある。熱で朦朧としていたわたしの枕元に、ある日、父が一冊の本を置いていった。『雑学辞典』。厚さは5センチはあろうかという、ほとんど鈍器のような本だった。 世界中のちょっとした雑学から、神話や伝承に至るまでを抜き出して集めた本で、これがたいへん面白かった。わたしは布団の中で、文字通り熱に浮かされるように、その頁をめくり続けた。
父が何を思って、熱にうなされる息子にあの凶器のような本を買い与えたのか。父が亡くなった今となっては、推し量ることしか出来ない。退屈しのぎにと思ったのか、たまたま本屋で目についたのか。あるいは、何も考えていなかったのかもしれない。 ただ、ひとつだけ確かなことがある。あの本のおかげで、わたしはずいぶん多くの物語に出会った。北欧神話の神々の黄昏、ギリシア神話の英雄たち、ケルト神話の妖精と戦士、そして聖ジョージのドラゴン退治。そうした「素養」が知らず知らずのうちに身についていたからこそ、のちにD&Dと出会ったとき、わたしは何の抵抗もなく、すんなりとその世界にのめり込むことが出来たのだと思う。
あの本には、海の向こうの物語だけでなく、この国の物語も詳しく載っていた。『古事記』や『日本書紀』の神々の物語、『宇治拾遺物語』の奇妙で可笑しな話の数々、『御伽草子』の鬼や化け物たち。イザナギが黄泉の国から逃げ帰る話も、浦島太郎が玉手箱を開ける話も、わたしが最初に読んだのはあの本だった。 そして今、『倭霊異記』を作るにあたって、あの頃に読んだ物語の数々が、何よりの下敷きになっている。この本の各章の冒頭に古典の一節を置き、コラムで古い言い伝えを語り直しているのも、元をたどれば、あの熱の日々に行き着く。
肝心のその本はというと、比喩ではなく擦り切れるほどに読み込んだ挙句、引っ越しのゴタゴタで行方知れずになってしまった。今でも、通販サイトなどで似たような本を見かけるたびに、試し読みの頁を開いては「ああ、これではない」と肩を落としている。 版が変わって、中身も変わってしまったのかもしれない。仮に見つかったとしても、今読み返せば「ずいぶん子ども向けの訳だな」などと思うのかもしれない。 それでも、少なくとも当時のわたしにとって、あの本との出会いはこの上ない体験だった。そして、それがまさに今の『倭霊異記』につながっている。そう考えると、亡き父のふとした思いつきには、ただ感謝の気持ちしかない。
熱に浮かされて読んだ物語は、四十年以上を経て、今度はわたしの手で一冊の本になろうとしている。いつか誰かが、この本を手に取って、熱に浮かされるように頁をめくってくれたなら。父から受け取ったものを、ほんの少しでも次へ手渡せたことになるのかもしれない。



