能登半島地震で震度7を観測した志賀町で
「向クリニック・介護医療院悠悠」に勤務している職員です。
令和6年能登半島地震 志賀町震度7
向クリニックは昭和48年、「向病院」として誕生し、様々な歴史を経て、平成29年「医療法人平成会」に生まれ変わりました。(経営者の交代で運営を継続できています。)経営者にとっては 引継いだ時点からマイナスでのスタート。そこに過疎化が手伝い、最大の課題が人員確保でした。当時は平均年齢60代越え、5年後、10年後を見据えると深刻な状況で事業継続も危ぶまれていたのです。
退職者がいない代わりに入職者もいなかったからです。
求人するにあたり、多種多様な方面から整備しました。
奮闘の甲斐があってか現在では、最年少20代前半から最年長70代のスタッフが活躍しています。みんなで力を合わせ、昨年12月には「来年は明るい未来に」と喜んでいたところでこの震災でした。
被害は想像をはるかに超え、老朽化した建物は勿論、設備や医療機器の破損、1階の1部と、2階介護医療院部分は現在も使用できません。
電気は復旧していますが、チラーが壊れてしまい、冷暖房の使用ができない箇所も多く、北陸の厳しい寒さを凌ぐため達磨ストーブを使用しています。
水も同様です。現在復旧はできているものの 配管の損傷個所が判明できず、全館の水道栓を開放すると天井から大量の水が漏れ、特定できない何処かが水浸しになります。
いまだに続いている余震では、震度3が観測されるとエレベーターは停止します。
ガスも配管損傷部が特定できないため簡易的対処にて対応しています。そのためご利用者様の入浴も時間が制限され、満足に提供できません。
断水・・・復旧の目途がつかない中での生活
発災後 断水が続き、水の貴重さを実感しました。1滴も無駄にはできない状況でした。当院の当直勤務医が「水を汲みに行きたいから1時間だけ外出させて欲しい」との申し出があるほどです。
生活用水、飲用水の確保が必須でした。
入浴は勿論、手を洗う事も出来ません。
洗濯もできないため、なるべく洗濯物を出さないよう「感染症対策での予防グッズ」(防護服・手袋・マスク・キャップ)を使用しての業務でした。功を奏し、避難所で流行していた感染症も、当院では拡大は免れました。
ちなみに洗濯は、仕事を終え片道2時間近くかけて金沢まで往復し、待ち時間に金沢市内の入浴施設で入浴するのですが、かけ流しで溢れるお湯を眺めながら 同じ石川なのにこんなに違うのかと虚しささえ感じました。
トイレも水を流せません。そこで活躍するのが生活用水(爲水)です。殆どの家には大きなゴミバケツが置いてあり 雨水を貯めていました。当院では事務長と院長が、外の貯水槽から何とか水が引けないかと挑戦して下さったり、毎日休まずトイレの前に水をためて下さっていました。中には紙おむつを使用しているスタッフもいました。
いつまで続くのか?
水が復旧できる日は来るのか?
念願かなった入浴支援・・・発災から3週間
断水が続きトンネルの出口が全く見えない状況の中、
「おふろ今日は休みか?」
という、ご利用者様の質問に
「すみません あとで身体拭きましょうね」
この会話を繰り返すたび
「ご利用者様に入浴を提供したい」という思いがつのります。
けれどその方法が見つかりません。
行政に要望を発信し続けました。
「施設に訪問入浴に来ていただく事は難しいですか?」
「そうやねー できればいいんやけど 水が出んことには難しいやろうね」
水 水 水・・・
自衛隊の入浴支援があっても施設で生活している方が利用するのは不可能です。
ドライシャンプーや、清拭タオルでの整容
しないよりはマシ・・・
けれど決して満足できるものではありません。
なかなか実現できず、JMAT DMAT の方々に相談しました。
JMAT DMATの皆さまが色々な方面に発信して下さいました。
なんと!!
「訪問入浴」の支援を頂ける運びとなりました!
発災後3週間が経過していました。
「気持ちいいねー」
「あっさりするねー(さっぱりするね)」
その言葉とご利用者様の笑顔を眺めていると 感謝で胸がいっぱいになり、写真に収めようと思うのですが 涙腺が壊れ自分の眼がピンボケです。
嬉しくて
有難くて
心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
現在も時間を見つけて駆けつけて下さっています。
プロジェクト立ち上げの背景
「修理修繕」「建替え」「移転建替え」 選択肢はこの3つ
私達職員の希望は耐震工事を行った状態での「安全」な環境での業務と、何よりご利用者様に「安心」して生活して頂ける環境の提供です。
そして、時代に添った両立支援に特化した働きやすい職場と、職員はもとより能登地域全域の方が利用しやすい場所での再スタートが「地域の復興」に繋がる事です。
「移転」を希望する3つの理由。
1.高齢化が加速している地域では壊れた家、失った住処を建直すという選択肢は殆どな いに等しく、仮設住宅入居を求める方が多いようです。しかし、仮設住宅立地条件が揃わず、建設用地が足りないと聞きました。1つが水の供給だと知り、当院敷地が活用できれば「この地から離れたくない」という地域の方の希望が叶い、住み慣れた地域での生活を継続できると考えました。
2.発災以前より、苦戦している人員確保での最大のネックが通勤課題です。発災後は富来地区までの通勤が出来なくなり退職者が後を絶ちません。通勤での支障を感じない場所で これまでに整備した「働きやすい職場」を活かし、現役世代が働く場として選択して頂ければ、震災で加速している現役世代の離故郷 それに伴う人口減少・地域の少子高齢化の歯止めに微力ながら協力できるのではないか。
3.現在も大きな課題となっている地域医療の存続が震災の影響で深刻な課題となっている。被災しても運営を続けるクリニック・診療所がある一方、廃業を決める施設も出てきています。過疎地化している中、被災前からの課題だった医師、看護師不足が、さらに深刻化しないとも限りません。医療を提供できる介護施設である介護医療院として受け入れる事ができれば「必要な方に治療の提供、安定したら退院へ(受入れ施設へ)」と運べ、地域医療を支える一員として協力できます。
「能登魂」
私達は能登で生まれ、能登で育ちました。
学校卒業と同時に就職した職員もいます。青春時代を向の歴史と共に生きてきたのです。
そんな私達がすべき事 そして望むこと
まず、「向を失くさない事」です。
自分達の職場です。
何かをしてもらうばかりが全てではない。
自分達にできる事を模索しました。
自分達の職場をどう変えられるか それはそこで働く自分達も考えなければならない事。
法人に頼るばかりでは前には進めません。
「能登魂」です。
国の支援は基本原状復帰のみを見据えているので、今回のような大規模倒壊のない施設の移転は不可能ではありませんが、とてもハードルが高いのです。そこでブランチとして、独自にできることは何かないかと辿りついたのが
「クラウドファンディング」でした。見様見真似での公開です。
「この町が好き」
「ここに居たい」
自分達の職場を大切に思う気持ち、故郷を大切にしたい思いでこのプロジェクトを立ち上げました。
ここでの主役は私達職員です。
日々の生活の中で少しずつ考える時間が持てるようになりました。
これから先は「安心」「安全」を約束できる環境の実現、また、地域の復興活性化に貢献することを使命とし、このプロジェクトでは、多くの方々の支援を得ることで明るい未来を築けると信じてやみません。そのために山田院長をはじめ、スタッフ一同 奮闘してまいります。
このプロジェクトで実現したいこと
令和6年能登半島地震によって壊滅的な状況に陥った志賀町。老朽化した建物が受けた被害による施設存続問題。現役世代(若者)の離郷や医療・高齢者施設での人員不足など、深刻な社会課題が浮き彫りになっています。
このプロジェクトでは、介護を提供できるクリニック併設型介護医療院として、地元志賀町を中心に、能登地域全体の方が利用しやすい場所を整備し、少子高齢化問題に立ち向かい、地域の再生と活性化に貢献したいという考えに 向クリニック職員として、また、能登人としてこのプロジェクトにより第1の希望が建替え、その土地を購入する為の資金と この震災で壊れてしまった電子カルテや、医療機器の購入等 必要な経費の1部としたい。その為にご支援頂きたいと願います。
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