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ミャンマーで学生がドキュメンタリー 第二次大戦下のミャンマーを振り返る

ドキュメンタリー:戦後70年を過ぎた今、日本とミャンマーの若者が、ミャンマーの第二次世界大戦を再考。1941年、日本軍はミャンマーに足を踏み入れました。当時、ミャンマー人は、日本兵は、何を思って生きたのか。日本とミャンマーの大学生が、ミャンマー各地の戦争体験者の話を聞きに行きます。

現在の支援総額

867,000

103%

目標金額は840,000円

支援者数

67

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2018/10/16に募集を開始し、 67人の支援により 867,000円の資金を集め、 2018/11/24に募集を終了しました

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ミャンマーで学生がドキュメンタリー 第二次大戦下のミャンマーを振り返る

現在の支援総額

867,000

103%達成

終了

目標金額840,000

支援者数67

このプロジェクトは、2018/10/16に募集を開始し、 67人の支援により 867,000円の資金を集め、 2018/11/24に募集を終了しました

ドキュメンタリー:戦後70年を過ぎた今、日本とミャンマーの若者が、ミャンマーの第二次世界大戦を再考。1941年、日本軍はミャンマーに足を踏み入れました。当時、ミャンマー人は、日本兵は、何を思って生きたのか。日本とミャンマーの大学生が、ミャンマー各地の戦争体験者の話を聞きに行きます。

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ご支援いただいた皆さまお世話になっております。一雨ごとに暖かさが増す今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。ご支援いただいたドキュメンタリー映画は”The Ancestors' Memories”(アンセスターズ・メモリーズ)と名付け、1月27日のミャンマーでの試写会を経て完成いたしました。現在は、国内・海外の映画祭に出品を進めております。皆様のご支援のおかげでここまで来ることができました。ありがとうございました。さて、このたびThe Ancestors’ Memoriesがローマの映画祭”Rome Indipendent Prisma Awards”にノミネートされましたこと、ご報告申し上げます。ここでは毎月自主映画が審査され、各月のファイナリストは年に一度のイベントで上映されます。今後も各映画祭に出品してまいります。よろしくお願いいたします。茂野新太


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10月末から11月上旬にかけて、ミャンマー国内のモン州タンビュザヤと首都ネピドーでロケを行いました。今回はそのご報告をさせていただきます。クラウドファンディングは現在、24名の方に25万4000円のご支援を賜り、目標総額の30%に達しております。ご支援くださった皆さま、心より感謝申し上げます。モン州タンビュザヤで、泰緬鉄道の博物館に行ってきました。映画「戦場にかける橋」をご存知でしょうか。第二次世界大戦当時、タイとミャンマーを鉄道で結ぼうとした日本軍が、イギリス人捕虜に鉄道橋の建設を命じる、という、史実に基づいた作品です。そして、ヤンゴンから夜行バスで約10時間、モン州のタンビュザヤという町は、この映画のテーマとなった「泰緬鉄道」のミャンマー側のターミナルです。ミャンマーへの物資補給路を少しでも早く確保したかった日本軍は、超難工事とも言われた鉄道建設を1年で終わらせました。一方、多くの連合軍捕虜やミャンマー人が犠牲者となったため、この鉄道は英語で「デス・レールウェイ」、ミャンマー語では「テイミンタマー・ヤッターラン(死神の鉄道)」と呼ばれています。私たちもこの場所で、当時の人々が置かれた状況についてお互いの意見を交わしました。博物館の裏庭には、当時泰緬鉄道を走っていた機関車が展示されています。大人も子どもも登っていたので、私たちも。他にもタンビュザヤには、ゆかりのある史跡が数多く残っています。鉄道建設中に亡くなった連合軍捕虜が葬られている「連合軍戦没者墓地」や、通称「ジャパン・パヤー」にも行きました。「パヤー」とは、ミャンマー語で仏塔のこと。ここには、泰緬鉄道での犠牲を弔うために日本の軍人が建てた碑がありました。このパゴダを古くから知る僧侶は、日本人が建てたというこのパゴダの来歴を話してくれました。そしてネピドーの軍事博物館へ続いて向かったのは、ミャンマーの首都、ネピドー。ヤンゴンから車で5時間走り、国立軍事博物館を訪れました。非常に大きな建物が構えています。なんと今回は、軍人の方に日本の占領期の話を聞くことができました。※現役の軍人の立場に配慮して、顔は伏せております。ミャンマーは、1942年に日本が侵攻するまで、イギリスの植民地でした。日本がイギリスと戦い、ミャンマーを占領したことで植民地時代は終了。その後、日本の占領政策に不満を持ったミャンマーは日本も追放し、1948年に独立しました。日本の教科書には無い視点で1942年から1945年の歴史を解説してくださり、大変有意義な取材でした。最後にロケも残すところあと3回となりました。皆さまのご支援に支えられ、どたばたもありながら、ここまでいい撮影を進めてくることができました。クラウドファンディングも残り12日、引き続き温かいご支援・ご協力をよろしくお願いいたします。


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クラウドファンディングの現状報告 お世話になっております。 皆さまのおかげで、10月29日現在、84万円の目標金額のうち、17パーセントにあたる、14万6000円のご支援をいただくことができました。 ご支援、シェアでご協力いただいた皆さま、心より感謝申し上げます。 プロジェクトの経過報告 10月の中旬に、ミャンマー国内の3地域をめぐるロケを行い、合計10名の大戦経験者にお話を伺いました。その様子をご報告したいと思います。 最初に向かったのはミッチーナ まずは、ミャンマーの北部、カチン州のミッチーナに向かいました。 この町は、インドと中国を結ぶ「レド行路」の要衝にあたり、日本軍が占領していたものの、連合国軍に奪還されました。その際の激戦が今に語り継がれています。 ここでは、連合国軍のゲリラ部隊として戦った元兵士の方にお話を伺うことができました。 「イギリス軍と訓練をしていたら、日本軍が攻めてきて、ヘルメットに銃弾が当たった」と話すダンカンクーさん。 そして、激戦地メイッティーラへ ミャンマー中部のメイッティーラと、その近郊マラインに向かいました。 ミャンマーの大戦は、日本軍が侵攻した前半と、連合国軍が反撃した後半に大きく分けられます。そして、メイッティーラは、連合国軍の反撃を日本軍が防ごうと、激戦が展開された地域です。 近郊マラインの村人は、村に来た日本兵に食料を提供したことや、村の近くで体力を消耗し、息を引き取っていった日本兵の様子を語ってくれました。 「この村に来た日本兵は紳士的だったけど、ほかの村では乱暴をしていたとも聞いたよ」と話すアウンシュエさん(左)とタウンチーさん(右)。 最後はバガン周辺の村々へ 観光名所としても有名なバガン。その周辺には、日本軍がヤンゴン(旧称ラングーン)からインド、中国方面へと進軍していったときの様子を覚えている方が多くいました。 バガン近郊のササヨ村で、「日本の将校は家のそばにキャンプを張っていたよ。とても礼儀正しかったね」と話す女性。 最後に 今回の撮影では、他のメディアでは多く語られていない、ミャンマーの人々から見た日本軍の姿をうかがうことができました。 「日本の兵隊は恐ろしく、ずっと家にこもっていた」という人もいれば、「日本人はかっこよかった。興味を持ってずっとついて回っていた」と話す人もいました。 私たち取材チームも、大戦を経験したご本人からの感情のこもった話を聞き、それぞれが新しい大戦の見方を持つようになりました。 取材はこれからも続きます。ご報告も続けてまいりますので、皆さまのご支援・ご協力を、なにとぞよろしくお願いいたします。 カメラマン、アシスタントの皆さんと一緒に。