https://inacollege.jp/2019spring/
「にいがたイナカレッジ」募集ページで連載中の「挑戦するな、実験しよう」にも、「就活」の違和感について書きました。
2015年1月から2018年3月まで、僕はある大学に在籍していました。地域と学生がコラボするプロジェクトをつくりつつ、大学の「中の人」になって、「就活」の違和感の正体を知りたい。そう思ってやってきました。
一方で本屋として、本をツールにしたコミュニケーションの場を作り続けてきました。
2015年9月、「暗やみ本屋ハックツ」の立ち上げで出会ったキーコンセプトは「手紙」でした。サンクチュアリ出版の金子さんとのトークで感じたことです。
本が「手紙」だったとき、その本が売れるのだということ。「手紙が届いたこと」が売り上げにつながっていくのだということ。出版という仕事ってそういうものなんだと思いました。
2018年夏、「にいがたイナカレッジ」で考えていたこと。それは「場のチカラ」でした。場のチカラを高めるために、ひとりひとりの感性をチューニングすることが大切だということでした。
「誰とやるか」が大事だと、ひとりの大学生が言っていました。それは端的に「就活」というシステム自体の違和感を表していると思いました。
おそらくその大学生は、人にフォーカスしすぎなんだなあと思いました。
資本主義システムは、人を数値化(道具化・手段化)することで利益を生み出してきました。
「本が好きなんで、ブック〇〇でアルバイトをしているのですけど、本がすべてデータで管理されていて、システマティックに時期が来たら半額の棚から108円コーナーへ移動し、さらに時間が過ぎたら108円コーナーから別の場所に運ばれていく。ここにいると本が嫌いになりそうで辛い」
京都で知り合った大学生がこんなことを真面目な顔で語っていました。1冊1冊の本が本じゃないみたいだと。
そう、効率的なシステムは、本を本そのものとして売るのではなく、モノ化(「消費財」化)します。モノ化し、大量に流通させることでスケールメリットが発生し、利潤が生まれる。それが資本主義というシステムです。そこでは当然、人も消費財化します。
「就活」システムは、乱暴に言えば、「消費財」として挙動できる人材を選ぶシステムであると言えます。新卒学生を100人採用する企業にとって、1人の大学生は消費財(数字)にすぎません。
最終面接まで行くと「あなたが大切にしてきたことはなんですか?」とか本質的な質問がされ、経営者や役員が「あなたと働きたいかどうか?」で最終合否が決まっちゃうらしいのですが。(「はたらきたい~ほぼ日の就職論」(ほぼ日刊イトイ新聞)による)
もし、大学生が、「手紙」を届けるような仕事がしたい、と思っているとしたら、就職以前に「就活」というシステムに馴染めないのは当たり前のような気がします。
「就活」はフレームワークだと思います。企業が求めるフレームに、自分を合わせていくこと。そもそも仕事ってそういうものです。世の中というフレームの中で、ルールや状況に乗っ取って、価値を提供していくこと。消費財を最高速で交換し続けることで利益を最大化すること。
「出版不況」に似ているなと思いました。
かつて本が手紙だったとき、その手紙が届くべき人に届いたとき、その本はヒットすると、金子さんが言っていました。いつのまにか、「売れる本」を売るようになりました。マーケティングを駆使して、売れる内容、売れるタイトル、売れる装丁をつくりました。いつのまにか、本は手紙ではなくなった。もはやそういう余裕がないのかもしれません。「手紙」のような本を売り出すような余裕が。
それでも、今でも、「届けてくれてありがとう」と思えるような、「手紙」のような本に出会います。
たとえば、この年明けに読んだ3冊。
「本を贈る」(三輪舎)
「続・ゆっくりいそげ」(クルミド出版)
「生きるように働く」(ミシマ社)
3冊とも、手紙のような本でした。著者やつくり手の顔を知っているからかもしれませんが、じんわりと心に沁みてくるような素敵な本たちでした。
そんな風に、「手紙」をやりとりするような本屋が作れないでしょうか。そして、「手紙」をやりとりするような「就活」ができないでしょうか。
それは学生側だけじゃなくて、企業側、つまり採用側も望んでいるのではないでしょうか?
「本」という「手紙」を届ける「就活」(または「採用活動」)
「かえるライブラリー」で起こってほしいのは、きっとそういうことだと僕は思います。