詩という形式でしか、詩という乗り物でしか、ここで自分は自分自身をぞんぶんに生きることはできないのだと思う。整った散文には乗り切れないわれわれは異形の生き物だ。
詩を書こう、ではないはずだ。木陰や草陰でしか生きられない虫や精霊のように
詩でしか書けない、生き物だろう我々は。。
魂の源郷をたずねるということが、詩の源郷をたずねることと重なってしまうのは、こういうことなのだ・・・。別に詩が神の歌だ・・・などと言いたいわけではない。少なくともノロ(最高神職者とされるシャーマン)がティルル(神歌)を歌おうとしたときの胸のうちは、(うまく歌おうとも良いことを言おうなどの作為のない)無垢な状態であったこと。
まっしろな白紙のじょうたいで言葉がおりてくるのを待っていたこと。そこに定形という器の構えはない。その「信じる胸以外術なき場所」にあらわれてくる「不定形のもの」それは人が始めてみる形のことだ。人がはじめて見る形。それを神の形とかれらは思い「神の歌」と呼んだのだ。
「不定形」とはなにか。定形ではないとはなにか。それは「Here and Now」を、「いま・ここ」を生きる形のことではないか。
それはまた、定形では生きられない、つまり一般の日常の枠では生きられなくなった者たち(こころをふくめ)を救うべく、苦悩を掬い取るべく立ち現れた「つかの間の避難所」のことではないか。不定形とは。。
K島で、やっとうちとけることができた(島の年配のひとはちょっと近寄りがたい、険しさを顔の表情にもたたずまいにも漂わせている・・・)お婆さんにきいてみた。「ノロ(最高神職者であり、祭祀のリーダー役)は、どうやって決まるのですか」
「うん。しぜんに本人にもわかってくるんだ。なんとなくだんだん、普通には生きづらくなってきてな。そしたら、だんだんまわりもあー、あの人がこんどノロになる者だなあと気がつくんだよ・・・そして決まる」
そんなふうに、おしえてくれた。そして思った。古くからこの島で彼女たちが守っているものの本質とは、定形をはずれた者たちを受け入れる不定形の器を神器として大切にしているということではないだろうか。それは、日常の中に非日常を共存させるということだ。
*(抜粋/全文はこちらで)→ティルルは神の歌
このところ。つながったな、とうれしく思う出逢いがいくつかあり。驚く四月の雪の朝。ある若者から届いた清々しいメッセージ。昨日電車でたまたま開いた本。そして、今朝ツイッターで誰かが、あげてくれていた私の古いブログの記事。ぜんぶが、今ここで不思議につながっている気がします。さまざまな、ご縁ご支援に感謝です。ありがとうございます!*K島とは久高島/2008年の記事。