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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

現在の支援総額

9,000

1%

目標金額は550,000円

支援者数

3

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

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現在の支援総額

9,000

1%達成

終了

目標金額550,000

支援者数3

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

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ニシダタクジです。
先日、花巻の宮沢賢治記念館に行ってきました。100年近くの時を超えて、胸に来るものがありました。

僕は、大学時代に宮沢賢治「農民芸術概論綱要」に出会い、
「だれもが芸術家たれ」というメッセージに共鳴して、
就職せずに20代は畑をやりながら、人が集まる場をつくっていました。
今でも、賢治先生のメッセージが胸に響きました。

「永久の未完成これ完成である」
今回はこのメッセージが一番心に響きましたが。

ほかにも、
「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である 」
「新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」
「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」

このあたりがビビっときました。
そんなタイミングで出会った本。

「日本再興戦略」(落合陽一 幻冬舎)
前から読もう読もうと思ってはいたのですが、このタイミングでよかったなあと。

いきなり「欧米とは何か?」そして「日本とは何か?」
ときます。

~~~以下引用

もうひとつ、欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。

日本が「近代的個人」を目指し始めたのは1860年ごろで、それから150年以上経ちましたが、いまだに日本には「個人」によって成り立つ「国民国家」という感覚が薄いように感じます。むしろ個人に伴う孤独感のほうが強くなっているのではないでしょうか。これも日本人が「個人」を無理に目指してきたからだと思います。

江戸時代には、日本人は長屋に住んで、依存的に生きてきました。我々は個人なんてなくても、権利なんて与えられなくても、江戸時代など、対外的には大規模の戦争をせずに生きていた時もありました。

それなのに、日本は自分から依存を切ってしまいました。個人の持つ意味を理解していないのに、西洋輸入の「個人」ばから目指すようになってしまったのです。

今では、長屋もないし、団地も減りました。隣の人に醤油を借りることもなくなってしまいました。過去の状態が理想状態であるとは言いませんが、我々は過度に分断されるようになった。そしていつのまにか日本人はバラバラになってしまったのです。

本来、江戸の日本には、100、200、300という複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人の人が兼任して、みなで助け合いながら、働いてきました。ポートフォリオマネジメントがされていたため、誰かが技術失業することはありませんでした。

でも今は、「誰々の職業がAIに奪われる」なんて話題ばかりがメディアに出てきます。

これからの本質的な問題は、「我々はコミュニティをどう変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」ということなのに、「どの職業が食いっぱぐれるのか」という議論ばかりしているのです。

そうした「AI脅威論」は西洋の個人主義の文脈において出てくるものですから、本来の日本人がそうした問いに振り回される必要はありません。

これから日本が東洋的な感覚を土台としてテクノロジーを生かしていくためにも、まずは西洋的個人を超越しなければならないのです。一人がひとつの天職によって生きる世界観に我々はもともと住んでいませんでした。

百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。そもそも、アジアは昔から、言語によって何かを分断する考え方をよしとしません。

荘子は言語による二分法でモノを語りません。個人と個人以外、対象と対象以外というように分断する行為は、世界が調和によって成り立っていた安定状態を破壊してしまう行為であると主張しています。つまり、西洋思想の二分法の考え方は、アジア的な安寧に関する感覚、美的感覚や価値観とは合わないのです。

~~~ここまで本文より引用

就活の違和感、その根本には、アイデンティティ・クライシス(自分らしさ危機)と、個人戦を戦わなければいけないという就活のシステムがあるように思います。

そしてその違和感のひとつに、「個人」、つまり「近代的個人」があるのではないかと思っています。

そもそも、「個人」という概念がなければ、自分らしさとか、自分の強みとか、あまり重要ではないのではないか。

その「二分法」でとらえてしまうような就活への違和感があるのではないかなあと思っています。

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