「すべての教育は洗脳である」(堀江貴文 光文社新書)を読み直し。
やっぱ、「学校」そのものをとらえなおす必要あるなあと。
「学校」ってなんだっけ?
みたいな問いから始めないといけないんじゃないかと。
~~~ここから引用
日本には、僕のような「我慢しない人」を軽蔑する文化がある。そして、「我慢強い人」を褒め称える文化がある。
どんなに不満があっても、どんなに理不尽な状況に置かれても、それを耐え忍ぶことを美徳とし、耐えしのいだ先にこそ「成功」が待っているかのような言説がまかり通っている。ほとんどマインドコントロールに近い不条理なこの呪いが、この国全体を覆っている。
その原因は何か?「学校」なのである。旧態依然とした学校教育の中で、日本人は洗脳されている。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性に蓋をすることを推奨する恐ろしい洗脳、白昼堂々なされているのが今の学校なのだ。
教育はよく「投資」に例えられる。(中略)「学び」はそれぞれにとっての投資であるべきだと思う。投資とは、投資した側へのリターンが発生すること、すなわち投入した資本がそれ以上に大きな価値を社会に生み出すことをいう。
だが、今の学校教育は「投資」になっていない。いざという時に引き出すための「貯金」にとどまっているのだ。投資型の学びに我慢は不要。貯金の本質は我慢である。そして99%の我慢は、ただの思考停止にすぎない。
でも僕は、「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の目に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳になれた人たちが信仰先を変えただけ。
僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。
残念ながら、普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国ぐるみで行われているからだ。国家は、全国に4万6000箇所もの「出先機関」を設け、この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。その出先機関とは、「学校」だ。
学校の大きな役割は二つあった。一つは子どもの保護。そしてもう一つは、彼らを「望ましい工場労働者」へと育てあげることだ。
政府にとって、工場労働者の確保は死活問題だった。工場の生産性は、国家の軍事力と直結している。しかし、ただ単に人手があればいいというわけでもない。工場の生産性を上げるために必要なのは、基礎的な学力、忍耐力やコミュニケーション能力といった、複数の能力を備えた「人的資材」だった。
つまり学校はもともと、子どもという「原材料」を使って、「産業社会に適応した大人」を大量生産する「工場」の一つだったのである。
世界のどの国でも、学校の誕生・発展はナショナリズムの台頭と連動している。
問題の本質は、国家が人間の規格=「常識」という鋳型を作り、そこに人間を無理やり押し込めようとすることにある。その教育システムそのものの誤りに気づいていないから、今でも学校は恣意的な常識の洗脳機関なのだ。
~~~ここまで引用
「学校」とは、そもそもなんだったのか?
「学校」制度の目的とは?
そんな「そもそも」から考えていかないといけないと思う。
もちろん、これは、堀江さんのいう、学校の負の側面を強調した文章になっているのだから、学校の正の側面ももちろんあるだろうと思う。(友人を得るとか、基礎的な学力がつく、とか)
しかし、そもそも「学校」ってなんだ?
「常識」ってなんだ?
みたいな問いに対して、
何か仮説を立てようとするには、
とてもいいヒント、ネタになるのではないかと思う。
僕がこの引用した中で一番好きなのは、ここだ。
「僕は宗教には何の興味もない。否定も肯定もしない。それによって幸せになれると思うのであれば、好きな神様を拝めばいいと思う。だけど、「常識」への信仰だけはおすすめしない。はっきり言って、幸せになれる確率が低すぎる。」
「学校」は、あるいは「就活」というシステムは、
もしくは、「会社で働く」ということは、
「常識」への適応を要求する。
もちろんそれは、
世の中を生きていくために、必要なことだろうと思う。
しかし、「常識」を「信仰」してはならない。
本書にあるように、「学校」というシステムは、200年前に存在していないし、
「工業社会」とセットで生み出された仕組みだった。
「就活」について言えば、もっと短い期間でしかない。
その「常識」に適応する、ということ。
それは「適応」であって、正解ではないこと。
それを「信仰」することなく、考え続けていくことが大切なのだと思う。