「学校をつくり直す」(苫野一徳 河出新書)からの
「ふるさとを元気にする仕事」(山崎亮 ちくまプリマー新書)
「探究」ってこういうことなんじゃないかとあらためて思った。地方こそ、地域社会こそ、「探究」の宝庫だと。
僕の「探究」の入り口は、2002年の中3不登校男子、シンタロウとの出会いだった。そこから、「生きる力」ってなんだろう?っていう問いが始まった。
ツルハシブックスの店に立っていたとき、「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」と深刻に語る大学生を前にして、「やりたいこと」とか「自信」ってそもそもなんだ?働くってなんだろう?っていう問いが始まった。
2004年秋、30歳の時、社会科の教師になろうと思って、玉川大学通信教育学部に3年次編入。介護等体験も、2週間の教育実習もやったけど、「自分のフィールドは学校そのものじゃない」と思って中退。
学校そのものじゃないというより、何かを教えるようなスタンスじゃない、と思った。
2004年春に「小説吉田松陰」(童門冬二 集英社文庫)に出会い、野山獄エピソードに「これだ!」と直感。以降、「学びあえば希望を生むことができる」をコンセプトにしてきた。
そして、そのための「機会提供」を行うこと。
「機会提供」というコンセプトは、目的を持って始めないということ。そしてそれは、「予測不可能性」を大切にするということだと最近になって気がついた。今でも「暗やみ本屋ハックツ」のイベントに引き継がれている。今でもたぶん、それは変わらないのだろうと思う。
本屋には、宝物が眠っている。
それは「探究」を駆動する何か、だ。そしてそれは、「地域」にも、「地域の人」にも同じく眠っている。
「地域の課題解決」が叫ばれているが、「解決」したいと心から思うのは、一般的「課題」じゃなくて、具体的な誰かが困っていることだ。それを解決することで楽しい未来が待っているようなこと。
それに出会えること。
それが「本屋」と「地域」の魅力だろうと思う。
「本」や「地域の人」に出会い、心が動くこと。「衝撃」や「共感」だったり、「何とかしたい」と思うこと。そこから「探究」が「学び」が駆動していく。
そういう場所をつくりたいんだ。
そんな学びを駆動させる1冊に偶然にも出会える本屋を、一緒につくらないか?
「探究」を発動するような地域を、場を一緒につくらないか?