「学校をつくり直す」(苫野一徳 河出新書)読みました。
長野県伊那市で「まあるい学校」やってた濱ちゃんに紹介されて読んだのが苫野さんの「教育の力」でした。あれから5年。
「公教育をイチから考えよう」(リヒテルズ直子・苫野一徳 日本評論社)にも記載がありましたが、「教育の個別化、協同化、プロジェクト化」に僕もめちゃめちゃ賛同しています。
特に「プロジェクト化」について、大学生のインターンシッププログラムや課外活動を仕事としても考えていたというのもあって、その機会をどうやってつくるか、っていうのを僕もひたすら考え続けています。
そしてそもそも、本屋っていうのは、そのような「プロジェクト」への入り口、機会を提供している「場」なのではないかと。
人との出会いや本との出会いによって「知りたい」「学びたい」という「探究」の心が駆動していくのではないかとあらためて思った1冊でした。
ということで、本文より引用
~~~ここから引用
「自由の相互承認」を原理(根本ルール)とした社会を築くこと。これ以外に、人類が「自由」に平和に生きる道はない。これが哲学者の出した答えでした。そしてわたしの考えでは、この原理こそ、一万年におよぶ戦争の歴史を経て、人類がついに到達した英知の結晶にほかならないのです。
公教育は、すべての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きるための力を育むことを通して、「自由の相互承認」を原理としたこの市民社会の礎を築くためにあるのです。
苫野さんからの3つの問い
1 現代において「自由」に生きるための“力”とは何か?
2 その“力”はどうすれば育めるのか?
3 「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?
「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」そして、カリキュラムの中核を「プロジェクト」あるいは「探究」へと転換すること。
それはつまり、出来合いの問いと答えばかり学ぶ学びではなく、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」、そんな「探求型の学び」です。
学校はこれまで、多くの場合、子どもたちに「問いを立てる」という経験さえ十分に保障できてきませんでした。学ぶべきことはあらかじめ決められ、そしてそれを、決められた順序に従って勉強するように強いてきたのです。
わたし自身、「探究」という言葉を、「学び」それ自体として、つまり、そもそも学びとは「探究」にほかならない、という意味を込めて使っています。「プロジェクト」という言葉は、この「探究」を駆動するための方法概念です。
要するに、子どもたちの「探究」を駆動するために学校での学びを「プロジェクト化」していく必要がある。
「プロジェクトの類型」
1 課題解決型プロジェクト
2 知的発見型プロジェクト
3 創造型プロジェクト
子どもたちが「探究」によって学ぶとき、教師は「探究」をサポート、ガイドする「共同探究者」「探究支援者」になる必要があります。「共同探究者」「探究支援者」としての教師は、どれだけAIが進化したとしても、あるいはAI時代においてはなおのこと、これからますます必要とされていくはずです。
わたしたちには、今、自分はどう生きれば幸せなのか、自由になれるのか、そしてそれはどうすれば可能なのかという、自らの人生の問いそれ自体を立て、またその答えを見つけていく力が必要なのです。
「探究」の四つのステップ
1「テーマ」:探究テーマの発見・選択、およびそのテーマに浸りきる
2「問い」:探究テーマに関する「問い」を立てる
3「方法」:「問い」を解くための方法を考え出し、実行する
4「発表」:探求の成果を持ち寄り、交換し、学び合う
子どもたちの学びをもっと「遊び」にしていこうということでもあります。より正確に言うと、「遊び」と「学び」を、もっと連続的なものにしていこう、と。
幼少期の遊び浸りがその後の学び浸りの土台になる、というのは幼児教育の基本です。子どもたちは遊びの中で、自分の関心をとことん追求すること、粘り強く探究すること、また人と協働したり折り合いをつけたりすることなどを学んでいくのです。
学びは本来、とんでもなくワクワクするものなのです。新しいことを知ること、そのことで自分が成長していくのを実感することが、ワクワクしないはずがありません。
でも、小学校に入った途端に、遊びと学びは分断されてしまいます。先生は言います「はい、遊びの時間は終わり。今は勉強する時間です!」遊びとお勉強はまったく別のものにされてしまうのです。遊びは楽しいものでお勉強は嫌なものになるのです。
「探究」とは、本来最高の「遊び」である。そう、わたしは改めて言いたいと思います。子どもたちの「遊び」を見れば、それは一目瞭然です。あの「遊び」が、高度の「探求」でなくて一体何でしょう。
~~~ここまで引用
大人の役割は、「共同探究者」「探究支援者」となること。
いや、大人に対する子どもの役割ではなくて、人と人との関係性は、そこから始まるのかもしれない。
かつて僕の師匠の塩見直紀さんが「一人一研究所の時代」と言っていたのを思い出した。それぞれが、それぞれのテーマで「探究」している。
本書にあるのような、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」、そんな「探求型の学び」を共に進めていく関係性があること。
それって人生において必要なのではないかなとあらためて思った。
そして、僕が茨城でやりたかったけど、まったくできなかったこと。
「地方は、過疎化や少子高齢化をはじめとする社会問題のいわば「宝庫」であるから、であり、むしろ地域の人たちと共に解決していく「探究」の学びをデザインすることができる。学校や世代を超えたプロジェクトチームを発足することもできるでしょう。」
そうそう、こういうの。これをやっていくこと。
本屋っていうのは、本のある空間っていうのは、本と出会い、そして人と出会うことによって、その入り口を作っているのではないかな。
学びと遊びが連続的に起こっていくこと。それこそが「探究」の楽しさであると思う。
「挑戦」の連鎖じゃなくて、「学び」と「遊び」と「さらなる学び」の連鎖をつくっていきたいな、と。
そんな「場」としての本屋、共同探究者との出会い、相互支援の場に、「かえるライブラリー・ラボ」がなっていったらいいなと思っている。