その② 空手
僕が空手を始めたのは4歳の時です。
母が経営するダンススクールでは地元のキッズ向けに、HipHopダンス/Tap/アクティング/ミュージック/空手 をトータルで学べるプログラムがありました。
そこで僕は空手入門し緑帯まで昇級したのですが、先生が日本に帰国することになったそうでその先生の空手クラスがなくなりました。6歳くらいだったと思います。 しばらくして違う先生の空手クラスが始まりましたが、流派が違うので、白帯からの再スタートでした。
そして、10歳くらいの時、僕は茶帯まで昇級していましたが、その先生もまた日本に帰ることになりました。日本に頻繁に行く機会があった11-12歳の頃、母が若いころ通っていた道場である「佐藤塾」に入門しました。3度目の白帯からのスタートです。「佐藤塾」は極真会館初代世界チャンピオンの佐藤勝昭先生の道場です。佐藤先生は、ガチンコの付き合いやローキックで相手の痛みを狙う空手を好まれず、華麗な技で闘うことをモットーとしておられました。僕は、ダンスを日々踊りながら得た柔軟性や回転力で、特に蹴り技に関して塾長から目をかけていただき、僕の空手は、この「佐藤塾」での稽古を通して上達していったと思います。
本文中にご紹介している動画は「佐藤塾」主催の試合での一コマです。 僕はこの道場で、10人組手昇段審査を受け、黒帯に昇段することができました。でも、僕にはひとつ悩みがありました。
それは試合に出ても準決勝止まりでなかなか勝ち進めなかったからです。 1本取られることはありませんでしたが、判定負けしてしまうのです。
佐藤師範は、「勝つことばかりが空手じゃない。ジョーイは素晴らしい技を出して見る人を十分に感動させた。」と言ってくださいましたが、僕は、こども心に思いました。確かに日常の稽古では心身を鍛錬することが目的だけど、試合に出るということは、勝ちに行くということで、それができない僕は試合に出る資格はないんじゃないか? 試合に出る以上は勝ちたい。
僕も佐藤師範のように「優勝」という頂点からの景色を見てみたい、と。 僕は、空手武者修行の旅に出ることにしました。様々な大会で常勝している道場を調べて出稽古を申し込んだのです。長野、名古屋、大阪、福岡、大分、などをまわりました。 お互いの技量を知らない同士が拳を交える他流派の道場での出稽古は緊張と恐怖感がありました。
一度、大会の1週間前に出稽古に行った道場で右の鎖骨を折られてしまい大会に出場できなくなったこともありました。 出稽古を通して学んだことは、「何事も何人もナメではいけない」ということと、「常勝する道場にはやはりそれぞれに違ったすばらしい指導と練習方法がある」ことでした。そして何よりも、道場や流派を超えて拳を交えた友が沢山でき今も交流が続いていることは僕の財産だと思っています。
出稽古の他に、空手を通して経験して良かったと思う忘れられない出来事があります。
僕が通う道場には本部道場以外に支部道場もあり、時には電車を乗り継いで憧れの師範の指導を受けることができる支部道場の稽古に参加することがありました。ある日の支部道場稽古で、それまでとは違った空気を感じました。組手稽古になった時、それは稽古とはいえないような、いびりやいじめのような理不尽な目にあったのです。
当時僕はまだ少年部でしたが、大人の黒帯にボコボコにされ、師範代はそれを止めようともせず、僕は、どうしてこんなことをするのか理解できずに泣きながら耐えていました。帰宅後それを知った母は、「明日もういちど行こう。」と言いました。僕は前日からの恐怖心と師範に対しての不信感しかありませんでしたが、母は、「ここで終わってはいけない」、と言いました。
母が道場の入口付近で待機する中僕は道場に入りました。前日からの恐怖感は相当なものでした。 空手の世界では良く耳にすることですが、当時、派閥や枝分かれなどの問題があり、本部道場に籍を置く僕は子どもでもスパイのように思われたのかあの日見せしめにあったのだと思います。あの日で終わっていたら、僕は師範のことも空手自体も嫌いになり、それまで頑張ってきた意味さえ疑問にもったままその後の成長期を過ごしていたと思います。 でも、翌日再度チャレンジしたことで、僕が純粋に空手に取り組んでいることが師範に伝わり、それまでで一番の良い、有難い稽古をつけてもらえたことは、いろんな人間関係の葛藤がある、特に大人の世界では、それでも真摯に向き合えば、根本にある思いが同じなら通じることがある、ということを、学ぶことができました。
武者修行の旅、最後に門を叩いたのはロサンゼルスにあるYAMAKI道場でした。ここは、極真空手史上最強と言われた世界チャンピオンである八巻建弐師範の道場です。道場生のほとんどは健康のために空手を習っているシニア世代とこどもだけでした。八巻師範からは、試合にはもう関心がないので、試合に出すための稽古はしていない、と断られました。 僕は、もう一度白帯を締める決心をし、YAMAKI道場に入門しました。 僕が住んでいた地域から道場がある日本人町までは車で片道約2時間かかりますが、母は毎日のように連れて行ってくれました。 通っているうちに、スパーリングやミット打ち、サンドバックなど八巻師範の指導が試合を意識した内容に変化していきました。さらに普段の食事に関しても指導していただけるようになり、YAMAKI道場から試合に出場させていただけることになりました。 そして、ついに僕は優勝することができたのです。
長い道のりでしたが、優勝を経験して思ったのは、「勝負は自分との闘いである」ということです。佐藤先生が言われた「相手に勝つことばかりが空手じゃない」という意味がはじめて理解できた気がします。自分に勝てない者は相手にも勝てるはずがありません。
近年、日本の同世代やもっと若いアスリートたちが世界舞台で大活躍しています。とてつもない「自分との闘い」を続けていることをヒシヒシと感じます。 エンターテイメントの世界ではまだ日本人の活躍があまり伝わってきていません。
僕は、闘いたいと思います。アスリートたちのように、世界舞台での戦いに勝つために。空手を通して得た忍耐力と不屈の精神力をもって、アクション俳優という分野で自分の可能性と闘い、日本のみなさんに元気と勇気、夢と希望を届けられるように。