先月、ピースボートの川崎、おりづるプロジェクト担当の野口と一緒に、「明子さんのピアノ」と対面してきました。現在、調律師で、「明子さんのピアノ」を修復した坂井原浩さんの工房の保管されています。私たちが訪ねたのは、ちょうど、中国新聞のジュニアライターさんが数名訪れ、ピアノを弾いて行かれた直後のことでした。「明子さんのピアノ」の現在の持ち主である二口とみゑさんは、子どもや若い世代の人たちが、楽しそうに「明子さんのピアノ」を弾いて、「明子さんのピアノ」が優しい音色を奏でてくれることがとても幸せ、と語ります。二口さんは、このピアノが置かれていた河本家のご近所に住んでいて、よくお茶に誘われ、河本家を訪ねたそうです。明子さんのお父様は、とても子煩悩で、つけていた48冊の日記や残された写真がそれを物語っています。待ちに待った明子さんの誕生、成長の喜び、我が子を心配に思う気持ちは、いまの親御さんたちとなんら変わりない、とおっしゃいます。明子さんのご家族 右が明子さん最初はそのお宅にピアノがあることを知らず、おうちが壊されるときに知り、その後、ピアノと日記を受け継いだと言う二口さん。「明子さんのピアノ」ができることについて、私たちが訪ねた翌日の記者会見でこのようにおっしゃいました。「被爆体験を聞くことはとても大切なことだけれど、あまりに悲惨すぎる情景は、74年という時が経ち、いまお子さん達には想像できない場合もあります。「明子さんのピアノ」の可能性は、子どもたちが音楽を楽しみながら「平和はこうやって作るんだね」と感じさせることができる、ということだと思います。そして、いまのお父さんお母さんも、被爆したときの怖さよりも、我が子を荼毘に付すのがどれほどつらいか、想像することができるのではないでしょうか」川崎が私に話してくれたことで、印象に残ったフレーズがあります。「例えば僕らが子どもだった頃、"74年前の戦争"というと、1904年の日露戦争なんだよね。だから、今の子どもたちにとって"74年前の戦争"は、想像が難しいほど昔の話になってしまうのかもしれない。伝え方を工夫する努力が必要だよね」今回の船旅、二口さんご自身にもご参加いただきます。乗船されるみなさんはもちろん、各地の子どもたち、学生、そのほか多くの方々と話をしたり、写真を共有したり、朗読や合唱などをしながら、「明子さんのピアノ」とともに平和と音楽を紡いでいきたいと思っています。(松村真澄)