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「明子さんの被爆ピアノ」をアジア10の港で響かせたい!

私たちピースボートは、この夏、74年前に被爆した「明子さんのピアノ」を船に乗せて、その演奏を通じて、被爆者の”声”と”思い”を広く届けるプロジェクトを企画しました。

現在の支援総額

906,997

113%

目標金額は800,000円

支援者数

100

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/04/15に募集を開始し、 100人の支援により 906,997円の資金を集め、 2019/06/29に募集を終了しました

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「明子さんの被爆ピアノ」をアジア10の港で響かせたい!

現在の支援総額

906,997

113%達成

終了

目標金額800,000

支援者数100

このプロジェクトは、2019/04/15に募集を開始し、 100人の支援により 906,997円の資金を集め、 2019/06/29に募集を終了しました

私たちピースボートは、この夏、74年前に被爆した「明子さんのピアノ」を船に乗せて、その演奏を通じて、被爆者の”声”と”思い”を広く届けるプロジェクトを企画しました。

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長崎 船上コンサートのお申し込み受付を開始!お申し込みは、こちらから:https://peaceboat.org/28833.html長崎ではピアニストの崔善愛さんと女優の斉藤とも子さんが、出演されます。今日は、そのお二人についてご紹介します。崔善愛さん      斉藤とも子さん私が初めて崔善愛さんの演奏を聞いたのは、2008年、上野・東京文化会館でのコンサート"室内楽はいかが?" vol. 12「ショパンの手紙」でした。その後、崔さんが書かれた『ショパン-花束の中で隠された大砲』(岩波ジュニア新書)を読み、それまで知らなかったショパンについて教えてもらった記憶があります。本書でも語られていますが、在日コリアンである崔さんは、米国インディアナ州立大学大学院に留学をした際、外国人登録の指紋押捺拒否を理由に「再入国許可」を取得できず、日本での永住資格を失った経験をお持ちです。一方、ポーランドで生まれ育ったショパンは、当時ロシアに占領されてしまっている祖国ポーランドを離れなければならない時期がありました。友人に当てた手紙で、『出発の日を決めるだけの強さがない。永遠に家を忘れるためにこの国を離れる気がしてならない。死ぬために出発するような気がする』と語っています。2度と日本に戻ることができないかもしれない、と不安だった崔さん。その時のショパンの心情を深く理解されたのだと想像することができます。広島で「明子さんのピアノ」を弾いたピアニスト、マルタ・アルゲリッチさんは、『このピアノはショパンが好きみたい。明子が大好きだったショパンを、この楽器は忘れていなかった』とおっしゃったそうです。そのショパンの苦悩を、自身の経験で痛感した崔さんによる「明子さんのピアノ」は、どのような音楽を奏でるのでしょうか。朗読を聞かせていただく女優の斉藤とも子さんは、NHK少年ドラマ「明日への奇跡」でデビュー し、数々の映画、ドラマ、劇を経験されています。斉藤さんは、舞台「父と暮せば」(井上ひさし作)の被爆した娘・美津江役を演じたことをきっかけに、広島・長崎に通うようになったそうです。その後、原爆小頭症の親子会「きのこ会」と出会い、被爆された方々の困難な生活の様子を聞き取り、とりわけ「きのこ会」が遺してくれたものを伝えています。その様子は、著書「きのこ雲の下から、明日へ」(ゆいぽおと)で綴られています。また、斉藤とも子さんご自身も、戦争に関して深い思いをお持ちです。旧満州で生まれ育った斉藤さんのお父さまは、16歳のときに終戦を迎えます。1945年8月9日、ソ連侵攻がはじまり、避難指示を受けるお父さん。先生や生徒たちと山越えの最中、敗戦の報が届き、各自逃げるようにと言われ、友人たちと取り残されます。途中で息絶えることがあっても、不思議はなかったでしょう。そんななか、ソ連兵に捕まり、日本人と知られたら殺されるという状況に。日本語を話せないふりをした少年であったお父さんを、朝鮮の農夫が「この子は朝鮮人です」と証言し、生き延びることができたそうです。途中で友人たちとはぐれてしまい、ひとりになったお父さん。やっとの思いで釜山港にたどりつき、奇跡的に帰国し、長い手記を遺しました。それを託された斉藤さんは、この夏、お父さんのストーリーを胸に、長崎から釜山に向けて船出されます。お二人は長い間、原爆投下のできごとを音楽と朗読で伝えていらっしゃいました。息も思いもぴったりです。先日、神保町のブックカフェで打ち合わせをし、斉藤さんがご存じの長崎の詩を教えていただきながら、コンサートのイメージを作りました。8月9日、「明子さんのピアノ」の優しい音色の中で命の大切さを感じ、「核のない平和な世界」を祈るひとときを、崔善愛さん、斉藤とも子さん、みなさんとご一緒に過ごせたらと思っています。


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【クラウドファンディング ご支援ありがとうございます!残り20日、あと329,000円です!】広島のコンサート受付はこちらから:https://peaceboat.org/28811.html広島では、ピアニストの萩原麻未さんとバイオリニストの成田達輝さんが演奏してくださることになりました。今日は、お二人にお会いしたときの様子を報告します:先月、お二人は広島県廿日市市でのデュオコンサートに出演し、私もお伺いすることができました。息がぴったり、そして尊重し合うような二人のハーモニーにうっとりした2時間でした。8月6日、このお二人が、「明子さんのピアノ」と「パルチコフさんのバイオリン」を奏でます。麻未さんは、2013年から「明子さんのピアノ」に触れ、演奏し、その柔らかな音色に親しんで来ました。一方、達輝さんが「パルチコフさんのバイオリン」を演奏するのは初めて。今回、数日間の広島滞在という機会に、そのバイオリンを手に取り、試奏していただきました。「弾く度に、日々音が変わり、最終日には、最初に弾いたときに比べて断然優しく、柔らかい音になった。」達輝さんは、パルチコフさんの物語を読み、心からバイオリンと向き合っているように見えました。数日後、麻未さんと達輝さんのもとを訪問し、どんなコンサートにしようか、話し合いました。「快活な曲を集めるよりも、やはり、内面の静けさを求められる曲にしようか」「悲しいばかりの曲を集めるのではなく、好い意味で、希望が感じられる元気な曲も入れたい」ピアノもバイオリンも、原爆投下当時の悲しみを記憶しながらも、今この時代に演奏される喜びも感じているはず、と思うのだそうです。「明子さんとパルチコフ先生、(在籍年が重なっているため)もしかしたら広島女学院で会っていたかもしれない、と言うひともいます。でも、もし会ってなかったとしても、いま私たちが一緒に奏でていることを喜んでくれると信じています」麻未さんに、最新のピアノと違う?と聞くと、「『明子さんのピアノ』には、時間を経て残ってきた以上の何かを感じたんです。現代のピアノのように、自由にいかない部分はあるけれど、ピアノのほうから何か訴えてくるものを受け取ります。被爆ピアノだからではなく、『明子さんのピアノ』がとても好きだし、幸せに思える。だから、出会いにとても感謝しているんです」「明子さんのピアノ」を演奏する麻未さん              ピアノの説明とメッセージそんな二人が選曲したのは、チャイコフスキーの「懐かしき土地の思い出」と、ウィリアム・クロールの「バンジョーとフィドル」。チャイコフスキーからは、パルチコフさんが故郷を思い出している様子を描き、クロールからは、この時代に響くを喜びを軽快に表現します。コンサートではこの2曲のほか、ピアノとバイオリンのソロなど数曲演奏される予定です。ひたむきなお二人が「明子さんのピアノ」と「パルチコフさんのバイオリン」を通して奏でる希望の音楽。ぜひ聞きに来てください。(6/12 松村真澄)


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プロジェクトにご関心を寄せていただいているみなさま、心から感謝申し上げます。5月25日、今日は「明子さんのピアノ」の持ち主であった河本明子さんの誕生日です。保険業を営んでいたお父さま・源吉さんの勤務地アメリカ・ロサンゼルス市の日本病院にて生まれたそうです。源吉さんの日記には、「長イ間 楽シミニ待ッタダケノコトハアル。其子ガ聡明ナル様祈ル。由テ名ヲ明子ト命ズ」とあるそうです。生きていらしたら93歳、いま一緒に暮らす私の祖母の2つ年上になります。先週、HOPEプロジェクトの二口さん、一緒に活動されている廣谷さんとともに、明子さんのお墓参りをしてきました。明子さんが、原爆投下当日に建物疎開の手伝いをしていた市内中心部から、命からがら泳いで渡った太田川に沿って走り、体を引きずりながら自宅を目指して歩いたという坂道を登りました。明子さんが、力尽き、うずくまってしまったという自宅への道の分岐点は、当時とあまり変わらない様子が感じられました。近所の方に戸板に乗せられて帰宅した明子さんは、翌日、「急性放射能障害」で亡くなったそうです。最期の言葉は、「おかあさん、あかいトマトが食べたい」でした。太田川クリの木高台に登ると、河本家の敷地だった地域を見下ろすことができます。すでに、マンションが並んでいましたが、その中で青々と大きなクリの木が立っていました。ご両親は、その木の下で我が娘を荼毘に付したと聞きました。近くに住んでいた二口さんは、明子さんのお母さま・シヅ子さんがお茶の木を植えていたこと、キウイを育てて食べさせてくれたことなど、懐かしそうに話してくれました。明子さんのお墓は、自宅があった場所からすぐそばにありました。明子さんのお母さま・シヅ子さんは、明子さんが寂しいだろうからと、墓石を自宅に向けて建てたそうです。墓石には、19歳で亡くなった明子さんのとなりに、子煩悩だったお父さま、その後二口さんに明子さんの話を優しく語ってくれたお母さまのお名前が並んでいました。1週間後のお誕生日に満開になりそうなつぼみのシャクヤクの花を供え、「大切なピアノをお借りします。たくさんの方に、聞いてもらい、一緒に歌ってもらってきます」と挨拶しました。私は、ピースボートのおりづるプロジェクトで出会うことができた被爆者の方々の証言を、改めて思い出しました。これまで、被爆者のみなさんに書き下ろしていただいた証言を読み込み、スペイン語に訳してラテンアメリカの方々に伝えるのが私の仕事でしたが、それぞれに、今も色あせない当時と現在があるのだと再認識しました。今回、明子さんの育った場所、眠る場所を訪ね、93歳の明子さんに、そう教えてもらった気がしています。(5/25 松村真澄)


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広島での滞在では、今回船旅のためにお借りする「パルチコフさんのヴァイオリン」の持ち主、セルゲイ・パルチコフさん、そしてそのご家族の波乱に満ちた生涯について知ることができました。HOPEプロジェクトで、代表・二口さんと一緒に活動されている廣谷明人さんが、広島女学院歴史資料館に足を運んだり、多く資料を入手したりして、ストーリーをまとめてくださいました:-------------------セルゲイ・パルチコフさんは1893年、ロシア・カザン市で貴族の家庭に生まれました。4歳からヴァイオリンを習い、カザン帝国大学では法学の学位を習得。1917年のロシア革命では帝政ロシアの陸軍中佐として戦いましたが、革命政府に追われ、妻とともにロシア東部へと逃亡。1921年ウラジオストックで朝鮮半島行きの船を接収し、妻と生後間もない娘を連れて他のロシア人と一緒に日本に亡命しました。来日後広島に移住するも、経済的困難な生活が続き、ついに愛奏するヴァイオリンを売る決心をして広島市内の質屋に向かいます。質屋に向かう途中に偶然、「日進館」という映画館の館主に呼び止められ、楽器を弾いてみてくれと頼まれました。演奏に感激した館主はすぐに彼を雇い入れ、セルゲイさんは旧友のロシア人とともに繁華街にある映画館で無声映画の伴奏の仕事を始めました。生徒の前で演奏するパルチコフさん彼の演奏の評判を聞いた私立広島女学校(1932年に広島女学院と改称)のゲーンズ校長は、彼を音楽教師として採用。彼は1926年~1943年音楽教師を務め、30人程度の弦楽オーケストラを組織。女学生だけのオーケストラは当時大変珍しく、広島の名物となりNHKのラジオで放送されるほどになりました。また、陸軍幼年学校でロシア語教師を務め、自宅ではヴァイオリンのレッスンの他に英語塾も開きました。当時の自宅は女学院の近く、爆心から500mほどの上流川(現在の幟町)にありました。セルゲイさんと妻アレキサンドラさんには、3人の子どもがいました。ウラジオストックで生まれた長女のカレリアさん(1922-2015)、広島で生まれた長男ニコライさん(1924-2003)と、次男デヴィッドさん(1933-1995)です。小学校時代のカレリアさん(上段左から4番目)「私たちは市内中心部の流川町に住んでいました。家の周りには大きな池があって美しい鯉がたくさんいました。とても快適な生活でした」(カレリアさん)「広島で生活しているときには、友人も多く、私は外国人として扱われたことは一度もありませんでした。一人の広島人として受け入れてもらっていました。川で泳いだり、釣りをしたり、町中を自転車で走りまわったり。」(ニコライさん)1940年、ニコライさんは高校進学時に奨学金を得て大学進学を目指し、セルゲイさんの知人のアメリカ人宣教師と一緒にアメリカに渡りました。1941年に太平洋戦争が始まると、ニコライさんとは音信不通の状態になってしまいます。太平洋戦争勃発後、他の外国人は帰国しますが、祖国に戻れないパルチコフ一家は広島に残りました。1943年、セルゲイさんはスパイの容疑をかけられ投獄されます。多くの人の援助もあって1年後に容疑が晴れ、自宅を広島市東区牛田(爆心から約2.5㎞)に移しました。そして、1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されたとき、デヴィッドさんは自宅の庭に、セルゲイさん、アレキサンドラさん、カレリアさんは自宅の中にいて被爆しました。爆風で倒れた壁の下敷きになり負傷しましたが、幸い軽傷で済み陸軍病院に避難した後、二週間ほど戸坂の民家に身を寄せていました。その後ロシア人たちは広島県北東部の帝釈峡に集められ、1~2カ月後には知人を頼って各地に移動していきました。【カレリアさんの証言】アメリカ戦略爆撃調査団が1945年12月に被爆者に面接調査を実施した録音テープに、唯一英語による外国人女性の記録としてカレリアさんの証言が残っています。「みんな外に出てきました。打撲した人、けがをした人、やけどした人もいました。私たちが山に向かって登っていくと、そこに黒人がいたのです――日本人ではありません――黒人です。私は『何があったの』『どうしたの』と聞きました。すると『ピカッと光が見えて、それでこんな色になった』と話しました。やっと病院、陸軍病院に着きました。そこに二日いました。」カレリアさんは陸軍病院で数日間けが人の治療にあたりました。インタビューではやけどの様子について答えています。「皮膚がすぐにはがれるのです。骨まで見える人もいました。目は塞がっていました。鼻血が出て。唇が腫れあがって、頭全体が腫れ始めました。水を飲ませると途端に全部吐いて、死ぬまで吐き続けて、血が噴き出してそれが最期です。二日目になると傷口が黄色くなってだんだん黄色が濃くなっていきました。どんなに必死になって黄色い色を取ろうとしても、腐った肉の色はどんどん濃くなっていきました。痛みはあまりなかったように思います。」【ニコライさんとの再会】ニコライさんは渡米後学業を続けていましたが、1941年の日本軍による真珠湾攻撃で人生が一変し、日本にいる家族とは連絡が取れなくなってしまいました。1943年高校卒業直前にアメリカ陸軍に入隊し、ラジオ放送の傍受や日本人捕虜への日本語での尋問を担当しました。1945年8月6日、彼はフィリピンで原爆投下のニュースを知りました。終戦後彼はマッカーサー一行と来日。横浜に赴任し、特別の許可を得て家族を探すために9月に広島を訪れました。彼は自分が生まれ育った広島の変わり果てた姿に衝撃を受けました。【劇的な再会:ニコラスさん、ニューヨークタイムズに投稿】ニコライさん「私の人生の最悪の瞬間でした。私はそれまで戦争で多くの死を見てきましたが、私が目にしたのは想像を絶するもの、『無』でした。鳥もなく、人もなく、建物もなく、木もなく、命もありませんでした。写真のネガのようにセメントに焼き付けられた人の影。私が生まれた家もなくなっていました。町は消え去っていました。」ニコライさんは自分が生まれた家を探しましたが、流川の昔の家は跡形もなく、彼が使っていたベッドの枠だけが焼け残っていました。転居のことを知らなかった彼は、一家は全滅したと思っていました。限られた時間の中でニコライさんがジープで市内を走っていた時、同僚を探すために市内に出てきていたセルゲイさんを偶然見かけました。二人は劇的な再会に大変に驚き、お互いに「幻を見ているように思えた」ということです。ニコライさんはセルゲイさんとともに他の家族のもとを訪れ、再会を喜びます。【パルチコフ家のその後】ニコライさんの働きかけで家族は東京に移り、その後アメリカに渡ります。セルゲイさんは進駐軍の施設で働き、渡米後はアメリカ陸軍語学学校でロシア語を教えました。そして、1969年に亡くなりました。妻のアレキサンドラさんは、1985年に亡くなっています。カレリアさんはGHQに勤め、そこで知り合ったアメリカ人ドレイゴさんと結婚してアメリカに移住。終戦直後はアメリカに来た最初の外国人被爆者として大きく報道されましたが、その後は被爆体験についてはほとんど語りませんでした。2014年没。ニコライさんはUCLAを卒業。陸軍で働いていましたが、次第にアメリカ政府や軍の核政策に疑問を持つようになり退役。後には積極的に反核平和活動に参加しました。反核を訴え10万以上の署名を集めて国連の委員会に提出し、1995年広島の原水爆禁止協議会大会で講演するなどしました。2003年ネヴァダ州レノ没。デヴィッドさんのその後の詳細は不明ですが、牧師としてケニアのナイロビで働いていたということです。アメリカ公文書にDavid S Palchikoff (1933-1995)の名前が記録されていますが詳細はわかりません。【カレリアさんとニコライさんの広島訪問】1986年、カレリアさんがアメリカ在住ということがわかり、かつての友人やセルゲイさんの教え子などが広島女学院の100年祭に彼女を招待しました。彼女は旧友との再会を喜び、すでに亡くなった両親の名前を被爆者名簿に記載するよう広島市に申し出、受理されました。ニコライさんも翌年来日し、東京~広島間を自転車で旅をしながら平和を訴えました。【流浪のヴァイオリン、そして修復】ヴァイオリンは1986年にカレリアさんから広島女学院に寄贈されました。ヴァイオリンは壊れた状態のまま20年以上広島女学院の歴史資料館に展示されていました。2011年12月、イタリア、クレモナ在住のヴァイオリン製作者石井高さん(1943-2015)が広島女学院を訪れました。大学は石井さんに修復を依頼し、石井さんはヴァイオリンをイタリアに運び、クレモナの工房で3ヶ月かけて分解、修復しました。ヴァイオリンは1900年頃のドイツの機械製で比較的安価なものでしたが、楽器の鳴りをよくするために板の厚みが調整してありました。ラベルには「ユーリ・パルチコフ 1920」と書かれ、おそらくセルゲイさんの兄が改作したと思われます。修復後には広島だけでなく日本各地に貸し出され、ニューヨークやウクライナでも演奏されました。---------------------爆心地から2.5kmで被爆した「パルチコフさんのヴァイオリン」は、普段、広島女学院歴史資料館で展示されています。今夏お借りしたそのヴァイオリンは、97年前に出発したロシアを含む、数々の港を訪れ、この物語を語るように深い音色を多くの人々に届けてくれることでしょう。


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「72年前に、主を亡くしたピアノがあります。主の名前は河本明子さん」2年前、このナレーションで始まる映像作品「ショパンを愛したピアノ」を制作したのは牛田中PC放送部のみなさん。主人公は、今回私たちが船に乗せて旅をする「明子さんのピアノ」です。明子さんの生い立ち、残された日記に書かれた言葉に加え、修復に関わった調律師の坂井原浩さんやピアノを受け継いだ二口とみゑさんへのインタビューは、明子さん本人、そしてピアノを取り巻く人々の優しいまなざしを表現しています。https://www.youtube.com/watch?v=0FXZuj1oSys&feature=youtu.be5月16日、牛田中PC放送部の顧問、熊谷先生を訪ね、お話をうかがいました。「明子さんのピアノ」が初めて牛田中学校を訪れたのは数年前。学校のPTC(保護者のみなさんとともに行う行事)で「明子さんのピアノ」を招き、その会で放送部のみなさんが司会を担当しました。合唱や合奏を通して、心温まる行事となり、生徒たちの心に残り、それがきっかけとなって映像制作にいたったそうです。放送部顧問の熊谷先生から、「明子さんのピアノ」を取材していたときの生徒たちの様子、「明子さんのピアノ」の魅力について聞いてみました。https://youtu.be/56vdhzIr_a8証言の「継承」は、難しく複雑なことと議論されることがあります。けれど、被爆遺品に出会い、その物語に心を打たれ、それぞれの方法で伝えていこうと行動する。作業する過程で、74年前を生きていた人々の生活や気持ちを想像し、共有し、周りの人たちにも想像するきっかけを与えてくれる。広島の中高生のみなさんに教えてもらうことは、数え切れないほどです。広島での演奏会では、こういった若いみなさんの参加も予定されています。(2019/5/22 松村真澄)