Yahoo!二ユース個人の11月の月間MVC( Most Valuable Commment )をいただきました! お笑い芸人のゴルゴ松本さんが刑務所や少年院の慰問活動を継続されていることはよく知られていますが、ゴルゴ的本さんがその活動に大きな葛藤を抱えられている記事がありました(記事の掲載は終了)。 それに対して、私は以下のコメントを出させていただきました。それを見た方々が「参考になった」を押せる仕組みになっておりますが、実際に就いた「参考になった」が95とほとんどボタンが押されなかった数字です。 【コメント】少年院の法務教官には「矯正教育(少年院教育)に落ちこぼれなし。生い立ちを知ることから教育が始まる。」という言葉があります。加害者であることは事実ですが、その生い立ちを知れば子どもたちもまた社会の被害者であることもわかります。 テレビや映画では、退院の日に家族が迎えに来ている映像がありますが、現実に保護司以外の誰も迎えに来ないことがあります。個人または集団の一員として何らかの触法行為をした子どもたちが少年院から出てくるとき、家族や親族が誰ひとり迎えに来ないことは、その少年が置かれてきた生い立ちの一端を垣間見ることができます。 矯正教育を通じて少年院から出てくる子どもたちを迎え入れる社会の側、かかわるひとたちの量と質が高まれば、その後の子どもたちの社会への(再)参入率と継続率は飛躍的に高まると考えます。【ここまで】 しかしながら、運営スタッフの皆様からそのコメントをMVCに選出いただいたということで非常に驚きました。 【選出理由】少年院退院の日に家族や親族が誰ひとり迎えに来ない現実――NPO代表として若者支援の現場に携わる筆者ならではの知見から矯正教育の課題を伝える、考えさせられるコメントです。【ここまで】 実際に法人職員が退院日に少年の出迎えにいく際、保護司さん以外、ご家族やご親族などが誰一人迎えに来られていない光景があります。私たちの存在は、いわゆる、身内関係者ではありませんが、それでも少年が私たちを見つけてくれたときの表情や、その後に話を聞くと、世界が全然違うようです。 誰も出迎えがないと思っていたところ、何名もの大人が自分を迎えてくれることは、罪を反省し、矯正教育を終えた少年が現実社会の荒波をこぎ出すため、わずかですが希望になるようです。もちろん、その後、実際に彼らの社会復帰/立ち直りを支援していくわけですが、退院日の立ち合いの意味の大きさを痛感しています。 退院後、最初に出会うひとというのは少年たちにとって大きな存在となることを実感しています。いま退院後の受け入れ先となる場合、立ち合いを許されています。そして、これまでは退院直前に面談などで会うだけでしたが、今後は少年院の「中」でも、そして引き続き「外」でも少年たちとのかかわりを広げられるようにしていきます。 少年たちの立ち直りは、出迎える大人の質と量で決まります。少年院退所者への眼差しは大変厳しいものですが、少しでも子どもたちに希望の光を魅せられるよう、多くの方々の直接的、間接的なご支援をお願いしています。
今月初旬に某少年院でご支援に入らせていただいたとき、少しだけ少年院におけるクリスマスついてお聞きすることになりました。僕が伺った場所は主に16歳から20歳未満の少年が矯正教育を受けているわけですが、その年齢を振り返ると、クリスマスは家族と食卓を囲んだり、友達で集まってパーティーしたり、大切なひとと過ごしたり。そんな年末を迎える前の大きなイベントで、少年院内で何か行われるのかをお聞きしたところ、食事にチキンなどちょっとしたクリスマスを感じられるものが出るそうです。そして、娯楽からは遠い場所にある中にも、ひと時の楽しみが提供されます。 そして、いくばくかのお菓子も。ここには「差し入れ」も含まれます。更生保護や矯正教育を支える民間/篤志家の活動のなかで、お菓子などの差し入れが時折あり、そんな甘味、塩味のあるものは、院内の少年たちにとって、「外部にも暖かく見守り、支えてくれるひとがいる」ことを感じられる小さな希望の灯です。 厳罰化が望まれる社会において、クリスマスなどの季節行事を感じさせることにも厳しい視点や声があるでしょう。それはそれで理解できる部分でもあります。しかし、私が少年院に行かせていただいて感じるのは、自由を拘束される長期の生活そのものが社会的にはとても厳しい環境に身を置くことであり、深く自らの行為を反省する空間であり、そして「これからの将来」を真剣に考える場所に思えます。 彼ら・彼女らは社会の一員として戻ってきます。そこには社会的包摂と十分な支えによって、日常生活への(再)参入があり、それがかなわなかった場合には、再びあの中に戻る可能性もあります。 その意味において、社会への希望や自分の未来への期待をいくばくかでも感じられるクリスマスなどのイベントに、ほんの少しでも暖かな何かを感じる機会があってもいいのではないかと思いました。 余談ですが、クリスマスに限らず、お菓子などの「差し入れ」は、特に受け入れに大きな制約があるわけではないそうです。もちろん、送る前にお問い合わせをしたりと事前連絡はあった方がよいそうですが、できるだけ「同じもの」を「人数分」が望ましく、多くはないようですが届けられるお菓子のなかで、意外にも大きな歓声が沸いたのは「コーラ」だったという話は非常に興味深いものでした。 今回のクラウドファンディングでいただいたご寄附での「差し入れ」は考えておりませんが、これから先、少年院内外で少年を支える活動、その課題解決に向かうにあたって、こんなちょっとした情報も共有・発信できればと考えております。 もし、僕らの活動を通じた少年たちのサンタクロースになっていただけたら嬉しいです。 文責:工藤啓
12月6日に少年院内でのパソコン講座を行いました。11月ごろから週に1度、タイピングや基本的なオフィススキルを教えるための時間をいただいております。 今回の講座の実施には理事長の工藤も参加しており、内容について記事をまとめています。漢字、アルファベットが理解できない少年院の子どもたち 連続して受けている子どもと途中から参加し始めて子どもが混在するクラスで1時間半程度、タイピングやエクセル、ワードなどいくつかの内容を実施しています。エクセルで自動的に計算をしてくれることやタイピングが回を重ねて上達することで喜びを表現してくれる姿を見ていると「ここが少年院の中」であるということは、すっかり頭から消えていました。 もちろん、週に1度だけ会う私たちに対して外向きの顔を使っているのかもしれません。そうだとしても、笑顔は嘘偽りなく、本物であったと感じました。 来週には仮退院式が行われ、そこにお迎えに行く予定です。その後、私たちがご支援を差し上げるまでには本人と保護者の同意があれば良いということではなく、多くのステークホルダーの方からのお力をお借りすることで初めて成立します。ぜひ、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。 【参考記事】公的支援の枠組みだけでは難しい。少年院から退院した子どもの支援に民間団体も取り組むことの意義。 【プロジェクトページはこちら】 (育て上げネット広報担当 山崎)
本日、少年院の「中」での支援活動では、私たちが常識的に前提としているものが前提となっていないことに直面した。 今日はPC基礎講習ということで、「タッチタイプ」「エクセル(関数)」「ワード(文章タイプ)」を、時間を区切って行った。本当に基本的なことではあるが、10代の子どもたちはすでにスマホシフトしているため、タッチタイプはむしろできる子どもの方が少ないのではないかということ。そして、エクセルを使いこなす10代もまた少ないのでははないか。 つまり、「できない」「わからない」は少年院の子どもたちが特別ではなく、世代的に「触れる機会に乏しい」のではなかと思うのだ。 既に数回目の子どもと、今日から参加する子どもが混在するクラスで、私は今日から参加する子どもに付き添った。まだあどけない横顔と、日常の生活をともにする法務教官の方々ではない大人の存在は、彼にどう映ったであろうか。 タッチタイプは、それぞれのレベルに応じてソフトを使って練習するが、ホームポジションのない我流ではあるが、それなりに早く打ち込んでいく。そこそこPCを使ってきた子なのかなと感じたほどだ。しかし、彼の手が止まった。 エクセルの関数といっても、SUMを使ってみる程度のもので、いまお読みいただいている多くのひとにとっては造作もないことだろう。しかし、初めてエクセルを使うときに、「これかな?」と思いながら進めていったときのことを思い出していただきたいのだが、サクサクとはできない。一回できると、「あぁ、こんなものか」と思う。 しかし、彼の手は止まったのだ。どこで止まったのか。まずは「品物」とセルに打ち込む際に、「品物」を「しなもの」、そして「SHINAMONO」に頭のなかで変換ができず、固まった。そこで、紙の裏に「しなもの」と「SHINAMONO」と書いた。すると彼は素早く文字を入れ込んだ。 「品物」を「しなもの」と読めなかったのか、それとも「しなもの」を「SHINAMONO」に変換できなかったのかは聞かなかった。彼のことをまったく知らないからだ。これまでの成育歴、そのなかでの出来事や感情の起伏などがわからない状況で、しかも初対面では、どうしてできないかよりも、どうしたらできるかだけに集中する。 次に、「みかん」や「りんご」をタイプするところでも手が止まった。それとなく「MIKANN」「RINGO」と紙上に書き込むと、ささっとタイプしていく。そんなこんなでSUMを入れた彼は、初めてのエクセルで課題ができたことにふと笑顔を見せた。 なぜ、彼は漢字やアルファベットができないのかを考えた。年齢的には小中学校が終わっている。漢字も特別難しいものではなく、また、アルファベット(ローマ字)も、高度なものが要求されたわけではない。しかも、彼はアルファベットを見て、しっかりとタイプしている。 いくつかの可能性は浮かぶが、この基本的なことができない彼の生い立ちを勝手に想像してみる。学校段階であれば、どこかでわからなくなったとき、誰にも聞けなかったか、誰も気が付かずに教えてあげなかったのかもしれない。そして、できないままでも授業は進むが、進級し、卒業する。 小学生であれば、宿題でわからないことがあれば親に聞くこともあるだろう。しかし、親や保護者がいなかったのかもしれない。いたけれどもちょっとした質問ができない関係性だったのかもしれない。少なくとも塾などに通っていればここらへんはサポートされたのではないかと思うのだが、そういう機会もなかったのかもしれない。 全部想像ではあるが、事実として彼は漢字やアルファベットが理解できていない。かなり基礎レベルであり、小学生で習熟すべきものだ。そして彼は退院後に仕事に就くことを目指すだろう。学力が身についてなくても働ける場所はあるかもしれない。しかし、わからないことは聞くことで解決できることや、そもそもわからないことをわからないままにしないようにすることが経験として抜けているかもしれない。 仕事に就いてもうまくいくだろうか。仕事のみならず、今後の生活や人生はどうなるだろうか。彼に手を差し伸べるのは、彼を理解し、受け入れる”よい大人”だろうか。 ずっとそんなことを考えている。誰が彼を支えていくのだろうか。 彼は終始笑顔だった。ふんわりと笑う表情は、まだ幼さを残す。ただ、それは私が外から来た誰かだからで、余所行きの顔をしたのかもしれない。実際、少年院の中にいる少年は、愛情を持って接する法務教官に対して、感情的になったり、よくない態度をすることもあるそうだ。愛着形成に起因するのかもしれない。 しかし、誰だって他所行きの顔や態度をするだろう。完全に素のままで誰とでも接することができるひとのほうが稀だ。そして彼らは退院後、社会に出る。いろいろなひとがいる場所だ。それを聞いて、少年院の外側から内側に入る僕らは、少しばかりの「社会」という風を持つ大人として、少年院内外をつなぐ存在になり得るのではないだろうか。 それが直接的にどのように子どもたちの役に立ち、成長に寄与するのかまだ見えていない。しかし、これまで彼があったこともないような大人のひとりとして、彼や彼のような子どもたちにかかわることができる、それはとても価値のあるチャレンジだと思うのだ。 文責:工藤啓