先日の福島ミーティングに地元の飛び入り参加が複数名あった。
副題は福島の嘘を暴くネットワーク結成の準備会だった。
そのサブタイトルに賛同したのではなく単なる興味が参加動機のようで
実際は完璧にサブタイトルと対峙する姿勢が結果的にたいへん有意義な
時間が過ごせ、大いなる勉強になった。
311以降のマスコミ報道は嘘ばっかりだ~あるいは隠ぺいだと
話すと声が上がった・・・「それでいいのじゃないですか?」
「なぜ、イチイチ、嘘だ!誤魔化しだ!と騒がないといけないのですか?」
という意見だ!
当初、あまりにも面食らって~なにを言ってるのだろう?
なにが言いたいのだろう??と戸惑った時、そういえば自著「福島の真実」の
発売直後に読書から届いたメールを思い出した。
「政府がメルトダウンを隠したのは、地域の社会パニックを防ぐという
大きな目的という正義のためじゃないのですか?」「何でもかんでも
批判するのは社会のためになるのでしょうか?」という内容だった。
同じグループの意見に思えた。
そして、このグループの人々が今日の日本のメジャーでもある。
そのメジャーな人が飛び入り参加したのは偶然の好機に思えたのだ。
民主主義社会では市民の生命や健康に重大な影響を及ぼす恐れのある
事件や事故について政府は社会に報告する義務がある・・・とロジカルな
話を始めても、このグループの人々には通じない~と思いを巡らし始めた
とき飛び入り参加者が言葉を続けた。
「もっと前向きに考えたら、どうなんでしょうか?」
福島の放射能汚染も広島の原爆と同じように過去の出来事のように
思考している。昨年末に福島で始まった<放射能迷信>を除染しよう。
あと必要なのは<心の除染だ>という発想は、汚染は過去のものという
マスコミによる洗脳を前提としている。
そして、このグループの人々に、福島原発からは、今日でも日々放射能が
ばら撒かれてる!と説明しても、多分、聞き入れられないばかりか何でも
かんでも政府を批判しても始まらないでしょ!という言葉が返ってきそうだ。
つまり、放射能汚染とか被ばくの問題や原発反対というテーマは
ロジカルとか自然科学なテーマではなく、社会では完璧に政治のテーマなのだ。
僕が<福島の真実>で主張している内容は政治色が薄い。
ひとりでも多くが現実認識することが重要だという主張を繰り返している点が
人々に通じがたくしているのかも?と初めて感じた。
つまり、放射能汚染や原発について、社会が興味あるのは真実でなく
現実的な生活の優位性なのかもしれない。いま、どうすれば自分たちの生活に
得策なのか?という目先の打算的な解が求められているのであってロジカルな
妥当性ではない!
参加者が言った。
「もし、本当に日本中が深刻に放射能汚染されて行ってるのなら?
その現実の中で、どう生きれば少しでも楽しくなるのか?どうすれば
少しでも友人知人と楽しくできるのか?じゃないんですか!
それが現実の生活じゃないんですか?」
このフレーズを是とすれば、過去の戦前から戦時中へと移行した道を
再び歩む・・・と、このグループに言っても通じない!
街に生まれ育った人々と地方に生まれ育った人々の間には生活感に
大きな隔たりがある。街の人間というのは土地に根無し草の感覚を持つ。
個人の自己実現に最適な地域が住むべき地域に見えるが日本や海外に
関わらず地域で育った人々は地域に住むことが人生である。
もちろん日本でも海外でも人口比で地域の住民が常にメジャーである。
そして地域の人々は同じく地域の人々と価値を共有し連帯して生きる
ことが人生なのだ。
このメジャー感覚では間違った政治や行政に抗するのでなく、間違いの
中で如何に幸福感や満足感や喜びを感じることができるのかなのだ。
だから反原発や放射能汚染の現状に抗するためには政治的感性で発想した
情報の構築と発信が必要になってくる。
このプロジェクトにも政治的感性が欠如している。
それがパトロン不在の原因なのかもしれない・・・!





