『新実力主義』が出版された1969年(昭和44年)当時のソニーや盛田昭夫氏の様子をより深く知るべく、クオンタムリープ株式会社代表取締役会長・ファウンダー、ソニー株式会社元会長であられる出井伸之様に、出井様の御自宅でお話をうかがってきました。
出井様と盛田昭夫氏との御関係はとても深く、面白いエピソードを色々おうかがいすることができましたので、出井様より許可をいただき、ここにご紹介いたします。
出井
盛田さんは1967年くらいの時、若い人をヨーロッパ担当に3人選んだんですよ。
20代の3人を、ドイツ担当、イギリス担当、そして僕がスイスおよびフランス担当。
僕は28、9歳だったかな。命ぜられて3人で行ったんです。
その時、盛田さんはそこにいた前任者を入れ替えることを決められ、若い我々にいきなり担当させたんですね。
我々はどうしようということでお互いに助け合っていました。そういう想い出があります。
木原
すごく大胆な人事ですね!
それは盛田さんが直接人事をされたということですか?
出井
ええ、そうです。
それで前任者達が帰国してしまい、20代後半で会社のことがよくわからないものだから、仕事を一から全部覚えました。
木原
盛田さんとしてはヨーロッパの人事をいっぺん白紙にもどして、若い力でやり直しさせた、という感じなんでしょうか。
出井
そうだったのかもしれません。
その他、日本に帰ってからは盛田さんからゴルフに誘われることがよくありました。
金曜日や土曜日に、急に行くぞって電話がかかってくるんです。
もう、盛田さんから電話がかかってきたら他に何があっても…(笑)
木原
そうですよね(笑)
本当に盛田さんは遊ぶことも働くことも常に目いっぱいのスケジュールでいらしたんですね。
出井
はい。フランスもしょっちゅういらしていました。
倒れられる1週間前も海外に行っていたり、本当に世界中飛び回って働いていた方でした。
当時は盛田さんが次の経団連会長になられるという噂もあり、盛田さんが経団連の会長になっていたらずいぶん変わったと思いますね。残念に思います。
木原
そうやって行動力があって先進的な考えをお持ちで、実際にされていることも非常にグローバルでありながら、それでいて財界の方々が認めて、支持されて、是非そういうポジションにって言われる方ってそうそういらっしゃらない気がします。
出井
日本の財界の中では異端の方だったですね。
なので盛田さんが会長になられたらどんな風になったかと今でも思います。
木原
出井さんがソニーに入るきっかけになったのはどんなところからですか?
出井
高校の時に、それまで大きかった半導体の機器が突然小さくなって、どこが作っているんだろう?と思ったら「東京通信工業」と書いてあったのがきっかけです。
木原
では「東京通信工業」時代に入社されたのですか?
出井
いえ。1960年、上場して「ソニー」に変わって2年目でした。
昔は入る時に、新人面接があったんですよ。
そこで僕は「申し訳ないけれどももう少し偉い人に会わせてください」っていったんです。
そうしたら、井深さんと盛田さんに会えました(笑)
木原
言ってみるものですね!
出井
ええ、言ってみるものです(笑)
当時まだ同じ部屋で、机を並べて井深さんと盛田さんが座っていらしたんですけれども、そこで僕は「僕は文系だけれども、半導体にひかれて面接に来ました。1年たったらヨーロッパに私費で留学に行くから、その条件を全部のんでくれたら入ります」といったんです。
木原
すごいですね。
でも、井深さんも盛田さんもそういう人好きそうです。
出井
そうしたら2人で喜んでくれて、もう明日からインターンでいらっしゃいといわれて。
だから、印象が非常に強かったかもしれないです。
あの2人でなきゃ、ソニーじゃなきゃ怒られていたでしょう。
意見が通りやすかったという他にも、1960年で女性の上司が大勢いたりと、先進的な良い会社に入ったなと思いましたね。
木原
出井さんしか知らない盛田さんとの面白いエピソードを色々伺うことができ、私が全く知らない1960年代のソニーがどんな雰囲気であったのかも伺い知ることができました。
お忙しいなかお時間いただき、貴重なお話をいただきまして、ありがとうございました!
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写真にある、リビングの額に飾られたワインラベルの数々は、出井様がフランス駐在時に盛田昭夫氏と一緒にワインセラーを視察された際のものだそうです。
ワインといえば、盛田昭夫氏の曽祖父であられる盛田家当主11代久左衛門 盛田命祺氏が知多半島でワイン造りに挑戦したお話が弊社既刊本『情熱の気風』に掲載されています。
https://www.amazon.co.jp/dp/4909539077