株式会社ライブドアホールディングスの代表取締役前社長、弥生株式会社の代表取締役前会長などを歴任され、現在は小僧com会長であられる平松庚三様は、1973年から1986年までの13年間、ソニーに在籍しておられました。
盛田昭夫氏とは主に「ウォークマン」事業において直接話し合い、時に言い合いをする間柄となり、ソニー退社の際には盛田氏に様々な手で引き止められるほどであった平松様による、盛田氏との様々な面白エピソードを日本外国特派員協会(外国人記者クラブ)※1にて伺ってきました。
今回、平松様より許可をいただき、その中のいくつかをご紹介させていただきます。
木原
盛田さんとの直接の出会いはいつ頃になりますか?
平松
ソニーに入るきっかけは「「出るクイを」求む!」の広告を見て※2だったんだけど、盛田さんと多く話すようになったのはウォークマンの海外広報担当だった時からですね。
ウォークマンのネーミングの件で、すごい剣幕で怒られたエピソードがあります。
(注:盛田さんは、社内でも録音機能のついてない機械は売れないと反対の声が大きかった「ウォークマン」販売を決断し、自らプロモートされました。1979年当時、盛田さんは58歳、平松さんは33歳)
木原
一体なにがあったんですか?
盛田さんは穏やかなイメージがあるので、すごい剣幕で怒るっていうのが意外な感じです。
平松
僕も盛田さんがあんなに怒るのを見たのはあの時だけでしたね。
”こいつがアメリカとかとの交渉を全部やってるな” というのをわかっていたから、お前から言え!となったんだと思います。
当時、ウォークマン発売に際して、アメリカとインドは「Soundabout(サウンドアバウト)」、イギリスは「Stowaway(ストアアウェイ)」、オーストラリアなどでは「Freestyle(フリースタイル)」っていうので、テレビコマーシャルをやりはじめていました。
でも盛田さんは、ネーミングをすべて「Walkman(ウォークマン)」に統一したかった。
ウォークマンのネーミングについて、アメリカの広報とイギリスの広報に対して、僕がこっち(本社)側になって、盛田さんとの板挟みになって大変だったんです。
毎日盛田さんから電話がかかってくるわけですよ。
僕はソニー本社の海外広報担当として、海外の担当に盛田さんの希望を伝えたものの、「アメリカもイギリスも違う名前でもうコマーシャルを出しちゃってて変えられませんよ」って言われて、そのことを盛田さんに伝えに行ったんです。
あまりに板挟みでこのやりとりが続くもんだから、盛田さんの所に行って「盛田さんは ”マーケットグローバリー、コミュニケートローカリー” っていつも言ってるけど、これは(名前の統一を指示するのは)違うんじゃないですか?」って言ったんですよ。
木原
ずいぶん思い切った意見を盛田さんに言いましたね!
平松
そうしたら盛田さんが「ばかもーん!!この商品はソニーにとってはじめてのグローバルプロダクトなんだ!ソニーのはじめての本当の1つの製品なんだ!」って怒りはじめて。
僕は全然理解できなかった、最初のうちはね。
「グローバルプロダクトって、トリニトロンだってスカイセンサーだって世界中行ったんじゃないんですか?」って返すと、盛田さんは「行ってないんだよ実は!あれは違うトリニトロンなんだよ!」って言うわけね。
テレビもラジオもグローバルプロダクトじゃないわけですよ。
チューナーを取り換えなくちゃならないわけです。
「あー、なるほどね!」と。「だけど、アメリカでウォークマンっていうのは英語じゃないし、あんまりニュアンスが良くないって向こうは言ってますよ」って言ったんですね。
そしたら盛田さん、「当たり前だよ!ウォークマンは英語じゃないんだから!俺が作ったんだから!ソニー語なんだよ!」って。
それで僕がまた海外の担当に「Morita said …」って伝えて。
それでもまだ向こうからああだこうだっていうのが続いて。
そしたら盛田さんが僕が見た限りでは初めて ”伝家の宝刀” を抜いたのね。
伝家の宝刀を使ったのを見たのもあの時だけです。
「ただいまより、世界中すべてのウォークマンのマーケティングを中止せよ!」
…だってもう、テレビコマーシャル作っちゃったのよ。
それを盛田さんが、ぜーんぶストップ!やめ! バシッと「すべて中止!!!」と。
もう広告とか全てスタートして作り始めちゃっていたのに、盛田さんの一声で「中止」ですよ。
それはなぜかというと、
盛田流の一流の考えがあって「one and only(唯一無二)のグローバル計画」であるから。
ウォークマンはわざわざラジオを付けなかった。
ラジオをつけると、一つのモデルで世界中にいけないわけです。周波数が違うから。
それで電気もなくてACパワーもなかったから、何ボルトとかも関係ない。
テレビとかラジオとかって一つのモデルで世界中にはいかないけれど、ウォークマンは単三電池2個だけで世界中どこでも動く。
だから、これがソニーにとってはじめてのグローバルプロダクトであり、ネーミングを統一することに意味があると。
木原
なるほど。
だからネーミングをすべて「Walkman(ウォークマン)」に統一することにこだわったんですね。
平松
海外の広報からは、ネーミングに関して「ニュアンスが良くない」の他にも、いろいろといわれました。
「ウェブスター辞典に載ってないから」と言われた時には、盛田さんは「将来載るんだよ!」とはねのけていましたね。
木原
盛田さんは若い頃からずっとそういう発想をお持ちなんですね。
1955年(盛田さん34歳の時)に、10万台のOEM契約を蹴って「お前の名前はたいしたことないのに」と言われた際に、盛田さんが「50年後には名前が残っているから」と言い放った逸話と同じ感じです。
本当にそうなってしまうわけなのですが、まだそうなる前からの自信がすごい。
ところで、そんな勢いのある盛田さんがいらっしゃるソニーから1986年になぜ離れようとされたのですか?
盛田さんに引き止められたそうですが。
平松
半年くらい、あらゆる手で引き止められたよ。まずは人事副社長。
ちょっと盛田会長と話してくれない?と言われて、「いやです」と。
そしたらいろんな人が次から次へと電話攻勢でかかってきたわけ。盛田さんの命を受けて。
でもなぜか盛田さんから直接そのことで電話がかかってくることはなかった。
他のことではしょちゅう電話してくるのに(笑
なぜソニーから離れたかっていうと、先が見えちゃって面白くなくなっちゃったんだよね。
盛田さんからは「普通の人は先が見えて安心するのに面白いやつだな」と言っていたけれど(笑
でもね、盛田さんから離れて外資系に行ってみたくなったんだけど、結局全く離れられなかった。
転職して行った先は「アメリカンエクスプレス」だったんだけれども、そこは実は盛田さん、社外取締役だったの(笑
それに正直、アメリカの外資系どこに行っても盛田さんの手の上にいるようなものだったんだ。
僕はソニーのあと外資系4つ行ってるわけですよ。
どこへ行ってもCEOが「お前ソニーにいたんだって?」「盛田さんのこと知ってる?」
僕が「もちろん!」というと、興味津々で「どんな人なの!教えて教えて!!」
木原
すごい(笑。盛田さん、アメリカで大人気だったんですね。
どんな風に魅力があったんでしょう?
平松
まずコミュニケーション能力だろうな。
ただ言うだけじゃなくて、世界初のだとかをバンバン出していたじゃないですか。
だから「SONY」を創った「Morita」がどんな人物なのか、興味があったんだろうね。
僕が人間 盛田昭夫を話したら、外資系のCEO達、みんな凄い喜んだよ。
教えて喜ばれた盛田さんのエピソードの一つに、”経営者はネアカでいろ” っていうのがあります。※3
ある時、車の中で盛田さんがスピーチの練習をしていて「経営者はネアカな奴がやらないとダメ」だなんとかいうのを聴いていて、僕が「そんなこといってもいつもネアカってしんどいですよね」って言ったら、「そういう時はネアカのふりをするんだよ」っていうのを言われたの。
しかめ面からは何も生まれない、笑顔を振りまいてクライアントも社員もハッピーにすれば自分もハッピーになる。人もそうだし、会社も工場も一歩入った時の「印象」「空気」でうまくいってるかそうじゃないかってすぐわかるので、笑顔を振りまいて明るい空気にすることがとても大事なんだということを教わったんです。
僕はわかるようになるのに10年かかりましたけどね。
そんな話をするとみんな大喜びしていました。
木原
なるほど。つらい時にそのままつらい雰囲気を振りまくよりも、フリでもいいから、いつでも明るい雰囲気で笑顔でいたほうが空気感がいいですよね。
私もネアカ、心がけます!
経営者だけではなく、個人でも役に立ちそうな素敵なエピソードをありがとうございます。
平松
ソニーを辞めて、アメリカンエクスプレスの日本支社に入った際には、盛田さんが「今度アメリカ行った時に話しておくよ」というので、なんのことかなと思っていたら、なんとアメリカンエクスプレスのトップであるジム・ロビンソンに僕の事を話しちゃってて、それでトップから直々に日本支社の社長に「今度平松ってのがそちらに入るらしいんだけど、よろしく頼むよ」と伝えたらしく、僕が会社に行ったらもう大変!
一体平松ってどんなやつなんだってね(笑
居づらいったらありゃしなかった。
そんなことされてプレッシャーハンパないけど、いい面もたくさんあって。盛田さんには感謝しているよ。
木原
辞めていく方にもそうやって気をかけて、先方のトップに話をされるって盛田さんって本当にすごい方ですね。
平松
あの2人(盛田さんとジム・ロビンソン)はすごく仲がよかったからね。
お互いの家に泊まったりするんだから。
一つ「たられば」の話になっちゃうんだけれども、盛田さんが経団連の次期会長になるという頃、ジム・ロビンソンがアメリカの駐日大使候補で、盛田さんが日本の駐米大使候補で、話が進みかけていたんだよね。
日米貿易摩擦なんかもあったし、もしあの2人が同時期に大使になっていたらどうなっていただろうなって思うね。
木原
そうだったんですね。
盛田さんが志半ばで倒れられたのは本当に残念です。
経団連会長や駐米大使として世の中を動かす姿を拝見してみたかったです。
ところで、私が平松さんを知ったのは「SOBAの会」という、ソニーを辞めて活躍しているOB/OGの会の代表者でいらしたことだったのですが、この会はお一人で立ち上げられたんでしょうか?
平松
数人の仲間と立ち上げました。
一時期は二百何十人いたけれど、(会員の基準は)「自分の意志で辞めた」というのがあって、「今でも現役」と、それから「いまでもソニーをこよなく愛している」というこの3つがあるんです。
でも2番目がもうなくなった。みんな平均が70後半になってきたから。
僕はベンチャーを含め、今6社の社外役員と百姓をやっているんだけど、でもこんな風にやってる人はほとんどいないですよね。
そうすると昔はよかった、孫の話とか膝が痛いとかそんな話になってきて、最近やらなくなっていたわけです。
でも、大賀さんも来たし、出井さんは2,3回来てるし、盛田さんは何回も来るって言っていたの。「これおもしれーなー」と。でも盛田さんは病気になっちゃったんで来られなかった。
木原
平松さんがソニーを辞められた後も、盛田さんとずっと濃い関係を続けられていたのがよくわかりました。
お話を伺っていて、盛田さんは多少言い返すくらい自分の意見を持った”強烈な個性”を持った若者が大好きだったんだなと感じます。
最後に、今回『新実力主義』を復刊するにあたって何か一言いただけますでしょうか。
平松
『新実力主義』は今回、大ボス盛田昭夫さんの生誕100年を記念して復刊されるということで。
この本は国内の保守的な社会に正面から物申していて、個人の自由や生きがい、働きがいこそが人生で最も重要であることを説いてて、盛田さんらしさがつまった「ネアカのふり」のバイブルだね(笑
当時のソニーがどんな風に企業努力を重ねて数々の「世界初」を生み出してきたのかが、盛田さんが実際のビジネスの場で実行した事例をもとに語られているし、停滞する日本の今の時代にこそ必要な経営ガイドブックだと思う。
この機会に今一度 盛田さんの力を借りて、終身雇用、学歴主義、年功序列、学卒一斉入社など国内に蔓延する昭和的経営を駆逐する必要があると強く思うし、本書はマネージメント層だけでなく、今の日本を憂う全ての人に読んで欲しいと思います。
木原
ありがとうございます!
この度は色々とお忙しいところ※4、お時間いただきまして、まことにありがとうございました。
ー※ー※ー※ー
※1
日本外国特派員協会とは、話題になった日本国内外の政治家、経済人、著名な評論家、音楽家、作家などの記者会見がおこなわれる場所です。
盛田昭夫氏も指揮者のカラヤン氏と共に過去に記者会見をおこなっており、写真が残されておりました。
※2
「「出るクイ」を求む!」については、今回復刊する『新実力主義』にて盛田氏が語っており、ここに一部を引用します。
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積極的に何かをやろうとする人は「やりすぎる」と叩かれたり、足をひっぱられたりする風潮があります。
たいへん残念なことです。
いいアイデアを育てる人はなかなかいません。反対に、ダメだダメだとリクツをつけて、それをこわす人はたくさんいます。
しかし、私たちは、ソニーをつくったときから、逆にそういう”出るクイ”を集めてやってきました。
ソニーがつねに他に先駆けて個性的な新製品を出し、わずかここ十年間に「SONY」を世界でもっとも有名なブランドの一つにすることができたのも、ひとつにはそのような強烈な個性をもった社員を集めその人たちの創造性を促進してきたからだと思います。
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※3
平松さんより、日経の「経営者はネアカであれ」の記事の写真をいただきましたので、こちらに掲載します。
※4
お会いした日は、ちょうど 平松さんの畑で稲刈りと出荷作業でお忙しい時期で、慌ただしいなか時間を割いて東京までいらしてくださいました。
お土産に収穫したての新米(ランクA、評価:極上!!社業だけではなく、農業も極められています)をいただきました。