Ola a todos!!
デフフットサル日本代表5番 船越です。
いつも我々デフフットサル日本代表への支援・応援・周知ありがとうございます。
それが我々にとって大きな「力」となり「モチベーション」にもなっております。
ありがとうございます!!
自分は1977年生まれで今年42歳になります。
日本代表の中では最年長であり、1998年に日本ろう者サッカー協会が設立された当初から日本代表(デフサッカー)としてプレーさせて頂いており、日本代表の変わりゆく歴史や環境を一番よく知っている古参者でもあります。
まず、自分の生い立ちをお話します。
1977年に大阪市平野区平野本町に生を受ける。
この年代はおたふく風邪がはやってて失聴する子が多く、その中の一人が自分でした。
僕は一人っ子です。
なぜ兄弟を作らなかったのかを聞いたら、社会人になっても耳が聞こえないハンデをものとせずに不自由なく生活できるように育てることでいっぱいいっぱいだったからだったと。
幼少期は親父は仕事(自営業)で出っぱなし、オカンとほぼ毎日発音練習に明け暮れる毎日で外で遊んだ記憶はあまりない。
土日どこかに連れていってくれたとしても社会見学・勉強ばっかり。
全然楽しくなくてうんざりしたけど、こうやって普通に喋れるようになったのはこのおかげだったという事です。
色々な事でオカンには感謝しても感謝しきれません。
でも空気読まないストレートな発言とお御節介さにはイラつきますけど・・・(笑)
幼稚園は堺ろう学校に通うため、堺市に引っ越ししましたが・・・1ヶ月も経たぬうちに生野ろう学校に転校し、生野区勝山北に引っ越ししました。
数年後になんで堺ろう学校じゃないのかを聞いたら、父も母も手話なんて覚えれないし、手話メインの教育方針では社会に出たとき苦労をするから、少しでも口読術でコミュニケーションとる学校に入れたかったからだということでした。
小学校は阿倍野区にある金塚小学校で、そこには難聴学級のクラスがあり「国語」、「算数」、「社会」は難聴学級のクラスで勉強し、それ以外の科目は普通のクラスで勉強していました。
小学校に入学したと同時に東住吉区に引っ越ししたため、金塚小学校の友達と遊ぶ機会はなく地元の子たちと遊ぶ時間が長く、自分の意思から、小学校5年生から地元の田辺小学校に転校しました。
同時に同級生に誘われてサッカー部に入りました。
そのサッカー部には現在デフフットサル日本代表監督である川元君も2つ下の年代チームとしてプレーしておりました。
といっても本格的にやってたわけではなく、ただただ友達と遊ぶことが好きだっただけで始めたサッカーでした。
中学校は地元の中学校で一応サッカーも続けましたが、この時もまだ友達とスポーツするのが好きだっただけで本格的にはやっておりませんでした。
高校は中学校のサッカー部顧問の推薦で中学校の先輩が進学した大阪初芝高校に入学しました。
この時は1993年でJリーグが開幕したという事もあり、本格的にサッカーを始めることになりましたが、走り込みやインターバルサーキットの毎日でサッカーが自衛隊のトレーニングみたいでイヤイヤだったのを今でも良く覚えています。
高校2年の時にアメリカワールドカップがあり、ブラジル代表が4度目の優勝を成し遂げたのを機に、サッカー王国のブラジルに強い興味を抱き、夏休みを利用してブラジルに留学に行きました。
1日中練習当たり前、走り込み当たり前、水飲むな、ミスしたら罰せられる、怒鳴られる、監督の言うことが絶対といった日本のサッカー文化が染み付いた自分が1時間〜2時間で練習終わり、走り込みしない、練習メニュー豊富で質が高い、プレーは自分のアイディアに任せるといった自由なサッカー・・・と、激しい衝撃の連続でした。
カルチャーショック受けた自分はブラジルでサッカーをしたい!ブラジルでサッカー選手として飯食っていきたい!と強く思うようになり、当時受け入れてもらったチームの監督からもスタミナを買われて、こっちでやらないかというオファーに舞い上がってしまい、帰国後自分勝手に高校中退し、親の反対押し切ってブラジルに行く事になります。
「社会人になっても不自由なく生活できるよう小さい時から一生懸命育ててきたつもりだし、ちゃんと大学に出て、いい会社に勤めて欲しいのが親の願いなのに・・・この親不幸者が!!」
というオカンの言葉は自分の耳には入らなかったし、胸にも刺さりませんでした。
それだけブラジルへの強い想いが勝ってしまっていたのです。
でも親父は違いました。
「自分の人生は自分で決めるものだから、チャレンジしてきたらいい。まだまだ若いからいくらでもやり直しできるから」
と背中を押してくれました。
「高校でレギュラーでもないし選抜にも選ばれてないやつがブラジルいくって頭おかしいんじゃないの?」と散々馬鹿にされた周りを見返すためにも絶対プロになってやるという気持ちがでかすぎて、プロになるまでは絶対帰らないし、親の死に目に逢えなくても仕方ないという覚悟ができてました。
それから3年間はブラジルでサッカーに明け暮れる毎日でした。
ブラジルの生活は更に話が長くなってしまうので割愛させて頂きますけど、とにかく苦労の連続でした。
ハングリー精神はここで培われたといっても過言ではないと思います。
1997年にサンパウロ州2部のプロのA.D.GUARULHOSというチームでジュニオールカテゴリーでサンパウロ州リーグ公式戦出場し、トップチームに引き抜かれ、トップチーム練習参加しながらジュニオールでプレーして虎視眈々とチャンスを伺い、晴れてトップチームとプロ契約というところまでこぎつけましたが、
労働ビザなど書類をまとめる代理人をつけてなかったため破談となりました。
ここでブラジルでのサッカー生活に一旦区切りをつける事になります。
20歳までにプロになれなかったらケジメつけて日本でしっかり地に足をつけた生活ができるようにするという事がブラジルに行かせてもらう条件でした。
朝から昼まで定時制の学校行って、昼から夜中までバイトの毎日でした。
その時に生野ろう学校の時の同級生にデフサッカーチームがあるのを教えてくれて、一緒に参加したのですが・・・
あまりのレベルの低さと手話でのコミュニケーションに激しい違和感を覚えて入団する気すら全くありませんでした。
この時は「障がい者」であることを認めたくなかったし、「障がい者」と一緒になりたくない自分がいてました。
でもデフサッカーの人達が、今年だけでいいからろう者サッカーの全国大会に出て欲しい!!としつこく嘆願してきて、それに折れて1年間限定で入団させて頂く事に。
それが現在所属している大阪デフサッカークラブ「アジアンタールFC」です。
その全国大会が1998年で、冒頭で説明しました日本ろう者サッカー協会が設立された年であり、その全国大会で大阪初の3位になり、そこで初めてデフサッカー日本代表に選出され、アジア予選やデフリンピックなど様々な大会に出場させて頂き、現在に至ります。
生い立ち長過ぎて申し訳ございません。
続きや中身をもっと赤裸々に知りたい方は、このクラウドファンディングリターン商品で講演というものがありますので購入して頂いて、僕を指名して頂ければ喜んで船越弘幸の42年間の人生をすべてお話いたします(笑)
もしくは直接僕に聞きにきてくださっても良いですので、お待ちしております。
さて、ここからが本題です(笑)
1998年〜2009年、2014年〜2015年 デフサッカー日本代表
2010年〜現在 デフフットサル日本代表
実質21年間日本代表としてプレーさせて頂いておりますが、当初から何にしても全額自己負担でした。
合宿は自分たちでグランドを探してきて、自分たちでピッチを作って、自分たちで洗濯して・・・という感じでした。
ほとんど選手や協会の人間のコネクションを利用しての合宿でした。
日本代表なのに合宿も遠征もウェア類も何の鴨全額自己負担ってあり得ない!!!と思うのが普通ですよね?
でも自分はそう思ったことがないんです。
感覚がおかしいと思われるかもしれませんが・・・。
日本代表になったばかりの時は違和感はもちろんありました。
でも、日本代表というものはサッカーだけに限らずに上を目指してスポーツをしている選手にとって憧れのものであり、はじめて日本代表として選出して頂いたときはものすごくうれしくて仕方なかったんです。
ブラジルでプロを目指してサッカーに明け暮れて、夢破れて第二の人生を歩み始めた自分にとって「日本代表」というものはかけがえのない存在だったのです。
だから自己負担なんてどうでも良かったんです
要は「日本代表」をとるか、「生活」をとるかだったんだと思います。
これまでずっと競技志向でサッカー、フットサルをしながら日本代表としてプレーさせて頂いてますが、仕事で得た収入の8割はサッカー、フットサル、日本代表(自己投資含む)に費やしてきています。
お恥ずかしいことに全く貯金ありません。
老後の生活なんて考えた事ありません。
なんくるないさ精神です。
それだけ「日本代表」という存在が自分の生活のほとんどを占めています。
ここだけの話、日本代表の事で自律神経失調症になるくらいですから・・・。
アホすぎて笑えるでしょ?
「いまだにこの年齢でなんで追い込めるんですか?」
「なんでそこまでお金かけてまでアホみたいに頑張れるんですか?」
とよく聞かれます。
なぜかって??
単に負けす嫌いだからです。
単に悔しい想いをしたくないからです。
悔しい想いが感じられなくなった時こそ競技志向フットサルの潮時だと自分でもわかってます。
その感じが未だにないからです。
結論から言うと、ただただ純粋にフットサルが好きだからです。
そんな自分がクラウドファンディングで2000万円集めるために支援お願いします!!!と言うのは怒られるというか、違和感あると思いますが・・・
やっぱり今の世代の子達はしっかりしているし、日本代表としての誇りというか、プライドをもってやっているわけであって、日本代表活動に全力で取り組むためにはやっぱり「自己負担」という課題をクリアしないと難しいものがあります。
これまで、実力ある選手が「生活」を優先して日本代表を辞退してるのを幾度もみてきてるし、史上最強メンバーの編成ができないまま国際大会に臨んできている背景もあります。
それと、この「2000万」というチャレンジをすることによって、自分を含め、選手たちも支援して頂くにあたっての「自覚」と「責任」と「覚悟」というものを今以上に持つようになるし、この大きな取り組みがいろんな人に認知されることでデフフットサルの活動や現状が広く知れ渡ることになるなど、いろんなメリットがあります。
年齢的に自分は今回のワールドカップが日本代表として最後のプレーになると思います。
1998年に日本代表と選出して頂いた嬉しさというものは今でも忘れてないし、日本代表人生21年間の中で色んな人と出会い、船越弘幸というどうしようもない人間をここまで成長させてくれました。
今のデフフットサル日本代表は過去最高のメンバーでありスタッフ陣容であり、環境であり、最高の雰囲気でもあるので、周囲への感謝の気持ちというものを決して忘れずに、謙虚になり、これまで苦労を分かち合ってきた先人や仲間たちの為にも、残された5ヶ月間を大切にかつ必死に過ごしたいと思っております。
皆さんに世界一という最高の景色を見せるのと、デフフットサルの輝かしい未来を切り開くために。
皆さん、一緒にがんばりましょう!!
日本代表メンバーの中で大変うざいくらいながーい、ながーいまとまりのない文章となりましたが最後まで読んでくださってほんとにありがとうございました