ロシアの川と言ったらどのようなものが思い浮かびますか? ロシア好きな人ならばヴォルガ川、人によってはハバロフスクを流れる極東のアムール川かも知れません。地理に詳しい人なら、やっとシベリアの川がいくつか出てくると思います。 そのシベリアの大河の1つがレナ川なのです。長さ4400kmが永久凍土地帯を南のバイカル山脈から北極海のラプテフ海まで、ゆったりと流れています。 日本で最も長い川は信濃川で360km。ヤクーチヤと日本の自然はやはり規模が違う。レナ川は世界で長さ7番目の黄河と僅か200kmの差で、実は世界で8番目に長い川なのです。 世界で最も長い川のTOP10を見てみると、実はその内4つのオビ川・エニセイ川・レナ川・アムール川がロシアのシベリアを流れる川ということが分かります。 そんなレナ川ですが、そのほとりに古来サハの民族が暮らしていました。平野部にはヤクート人、それを少し上がった丘の地域はエヴェンキ人。語源はやはりエヴェンキ語の”エリュエネ(大河の意)”。これがロシア人の名前にもよくあるような”レナ”に転化していったのです。 (写真=エヴェンキ族の若者) レナ川の流域にロシアが進出したの1630年代の頃で、レナ川上の最も大きい人の居住地であるサハ共和国首都ヤクーツクも1632年に建てられています。やっぱりその地域だけ平野の人口密度がグッと高くなります。 この川の両岸はほぼタイガ(シベリア針葉樹林)に覆われていて、開けた河原も少ないです。その素朴な深い緑は大変美しい。「レナ川の石柱」という名の氷河に削られそびえ立つ石灰岩の川岸が、おそらく最もな観光名所です。高さ200m以上の石柱の壮大な群がひたすら続いています。ユネスコ世界遺産にも登録されています。 (写真=レナ川石柱) レナ無しにはヤクーチヤ(サハ共和国)が大部分を占める北東ロシアでの人々の生存は有り得ません。それは太古の現在も同じなのです。川が凍らない季節に、冬の分の生活必需品や食料や石油などの物資が沿岸の港に運ばれます。まさに北東ロシアの大道脈なのです。太平洋と大西洋を繋ぐ最も短い「北極海航路」も現実の話となれば、レナ川の三角州は間違いなくその重要拠点になりますし、世界経済とシベリアの発展を結びつける一項になるかもしれません。 (写真=ロシアの北東の港町の一つ) ロシアの金鉱の4分の1もこの川のほとりにあります。 (写真=ロシアの金鉱) 1850年代以降ロシア帝国の資産家に開発され始めてから、莫大な対外借金をのために20世紀初頭に仕方なく、イギリス企業に買収されます。同じ頃劣悪な労働環境や政府の資本主義に対する不満で、有名なレナ川の労働者蜂起が起き、厳しく弾圧されます。この悲劇を忘れぬよう、後のロシア大革命家でソ連建国に絶大な貢献をしたウリヤノフ氏が自分の名を「レーニン」に変えます。 (若きウリヤノフ/レーニン) スターリン時代にはレナ川に多くの強制収容所が立てれられ地域開発と金鉱産業が進展します。 ・・・・・・ このような巨大で、美しくて、荘厳で、歴史も豊かで趣深いレナ川に僕らメンティと宮代は会いに行きます。そしてその匂いを音を景色の素晴らしさ、そこに感じる人間の小ささと命の偉大さを、日本に帰ってから伝えていきたいと思います。 この先日ロの観光も発展してくるとは思いますが、いつか日本人もこのシベリアの大自然を感じれるようなルートやプログラムもできればいいですね^^ もうできたら僕ら自身でスタディツアーとかやっちゃいたいんですけど…(笑)そのことについては帰国後に考えます。 まだまだクラウドファンディングは続いていくので、皆様ご応援ご支援をよろしくお願いしますm(__)m では、До завтра!!!(また明日)
僕たちの支援をしてくれた方々、今このページを初めてご覧いただいている方々、 С Новым Годом〜!!!(明けましておめでとうございます) 2016年は僕ら、メンティと宮代にとって大変多くの動きがあった1年でした。日ロ関係も一気に進展し、現在僕らもこの流れが良い結果にたどり着くことを強く希望しています^^ 冬休みで2人ともたっぷり休養を取ってチャージすることができたので、今日からクラウドファンディングの締め切りまで、そしてキャンペーンの最後まで邁進していきます! 2017年はこの記事をご覧いただいている皆さまにとって良い1年間になりますよう、心から願っていますm(__)m さて今日の記事ですが、最近メンティが知ったヤクーチヤ(サハ共和国)関連のとっておきのニュースについて発表します。実は昨年のロシアの重要な文学大賞ではヤクーチヤでのロシア革命時の出来事を描いた本が最優秀賞に輝きました! 「冬道」という歴史小説です。日本語訳はされていないのでタイトルは僕の訳語で、元が ”Зимняя Дорога”です。著者はレオニッド=ユゼフォーヴィッチ(Леонид Юзефович)という近年注目されている人。 https://www.livelib.ru/book/1001280517-zimnyaya-doroga-leonid-yuzefovich 1922年のヤクーチヤにおける白軍ペペリャエフ将軍と赤軍側アナキストのストロッド将軍の対立を描く。前者はロシア貴族の家庭で生まれ、後者は職業軍人の家庭で生まれる。WW1で対ドイツ戦線で戦っていたこの2人は、ロシア革命を境に相対立する2つの陣に与する。 当時日本勢力下にあったハルビンに一度の敗北の後に逃れていたペペリャエフは1921年の9月に軍団を組織し、当時半ソビエト反乱が起きていたヤクーツクに向かっての援軍としての行進を開始する。チェコ軍団や日本から支援を受けていた反革命軍団(ペペリャエフもここにかつては所属していた)との戦績で知られたストロッドとの-50℃を下回る環境での戦闘はまさに「死闘」となる。赤軍側が勝利する結果となり、ペペリャエフは牢獄送りとなる。 ロシア革命という大変遷の中で異なった陣に立って、それぞれ自らの理想と志と命をかけて戦った。だが終わりは一緒だった。2人とも1937年のソビエト大粛清で命を亡くす。釈放されていたペペリャエフは反政府政党の結成の疑いで、後者は密告で。ロシア革命の終結から15年経ったこの頃、ロシアのソ連としての未来を紡ぐことにソビエト側或いは反ソビエト側に立って関わった人がほとんどいなくなってしまい、革命の唯一目立ったの成功者・指導者・思想家として残ったのはスターリン派の人であった。。。 これはロシアにおいても日本においても、どの時代のどの国においても言えることだとは思いますが、現在の世界は勝者によってのみ形作られたものではない。勝者のみが情熱を持って自分が思う正義を守るために必死に戦ったということでは全くない。この「今」は派閥や成功失敗を問わず今まで生きてきた人の希望と夢を見る力、命の積み重ねで出来上がっている。 「ローマは1日にして成らず」という言われがあるが、僕は「ローマは1人1派の力にして立たず」とも言いたい。 この観点ももってサハ人に接してみたいという思が僕にあります。ヤクーチヤに革命戦争の記憶がどれくらいあって、歴史を通してどんな人が彼の地の記憶に残っているのか?現在の差ヤクーチヤの人々どんな気持ち、どんな情熱を持って未来に立ち向かっているのか?自分の生まれたヨーロッパ側のロシアの人とはそんなところがどのように違うのか?注意深く見ていって、この地の過去と現在、未来を吟味したいです。 こんな紹介になってしまいましたが、メンティはまだこの本を読んでいません。昨日ネットで発見して即注文しただけです(笑)なので決してレビューではありません!ですが読んだら必ず感想を皆さんと共有します〜 読む機会がありましたらどうぞ読んでみてくださいm(__)m そしてもう一度、 С Новым 2017-ым Годом!!!
僕は何人なのだろう? とても永い間、そのような問いかけは自分にしてきませんでした。 僕は普通に日本で暮らし、普通に日本の学校の教育を受けて、日本の大学に入って、そのまま日本人ロシア人関係なく社会で活躍していきたい。 そう思っていました。 大学に入ってからは僕はごく普通の日本の大学生としてですが、色んなチャレンジをしました。議員事務所でインターンしたり、NPOを立ち上げようとしたり、起業しようとしたり、等々。しかしこれらのことはあまり上手く行かずに頓挫してしまいました。 その原因は良く良く考えると、自分はやりたいことだけをひたすらやっていて、それは人にとってどんな意味があるのか?ということを考えていなかったことにありました。反省も多くあり、2年の5月後半頃から、私は約半年、沈黙しました。 そして僕が大学2年生後半の頃のこと。 僕はそれから2年と少しの後、社会に出なければいけないkとに気づいたのです。自立して、生きていかなければならない。しっかり働いてしっかり稼いでしっかり生きて行く、他の人と対等に。どうすれば自分が社会と共存できるのか?どうしたら自分も周りの人も一緒に生きていくことができるのか? そう考える内に、僕は人から見てどんな人なんだろう?って考えるようになりました。そこで行きついた答えが、日本人にとっては、私は「日本で暮らしてきたロシア人」ということでした。他の要素は変わる可能性がありますが、このことだけはおそらく不変の事実なのでしょう。 かといって現地に暮らすロシア人とはまた違うのでしょう。やっぱり生きてきた環境、教育などなど。 自分は日本人ではないが、ロシア人でもない。だが「日本内のロシア人」なのかもしれないと、その時から考えるようになりました。 僕はこの感覚を持ったまま、「日本内のロシア人」としてできることを探して、とりあえず字幕の翻訳の仕事をやってみました。ロシアのニュース映像に日本語の字幕をつける仕事でした。 そうしたら驚くことに。自分にとっては気持ち良く、お金も入って、それから人に需要されていた仕事だったのです。ロシア人と日本人の両方の感覚をある程度備えている僕にとっては、ロシアのことを日本人の感覚に伝えて聞き手に伝えることはとても気持ち良かったのです。まるで、今まで理解されてきてなかった、明かしてこなかった自分を、人に伝えるときのように。 感情がとても高揚する仕事、自分の生計が立てられる仕事、そして人のためになれる仕事。これは最高だろうなとその時思いました。 その頃から僕は自分により合う手段を模索し続けました。一時期は日本にロシア地方のハンドメイド製品を売るということもやっていました。それもまた、ロシアのハンドメイド製品の素晴らしさを通じて、ロシアを日本に届けることがコンセプトでした。 そこで、ロシアの地方の可能性は無限大であることに気づきました。商品はとにかく高価に、原価の数倍分に売れたのです。 その頃の活動の僕の中で結論として生まれたのは、ロシアの地方のポテンシャルを引き出すためには国外との直接的な関係を作らなければいけない、販路を国外に届けなければいけない、ということでした。なぜならロシアの地方はロシアのみのお金によって十分に創生できないからなのです。 ロシアの地方に暮している人にとってはより良い生活、日本でのお客さんにとってはより良い商品。ロシアにとっては不足している外貨の地方、そして国のレベルでの流入。そして国力の民間からの底上げ。日本にとっては拡大する民間関係の中で新しく生まれるロシア地方市場。日ロ関係にとっては多層的で本質的な中身、そして信頼構築。 そんなことが、ロシアの生かされていない魅力と日本を結ぶことによって生まれ得ることに気づいたわけなのです。 以上が、僕がロシアの地方としてのサハ共和国にも大きく見出している可能性であり、今回の企画で自分の認識がさらに深まり現実ベースに落とし込めるようになることを強く期待しています。それが私が日ロ協力のフロンティアの可能性になることが高いサハ共和国に自ら足を運び入れたい第一の理由なのかもしれません。 地方の観点以外のものも複数ありますが、僕は自分が温めているアイデアの実現に向けて人材業界から入っていこうと現在は決めています。僕の今やろうとしていることも、将来成し遂げたいことも、1つの芯が強く通っています。それは「日本内のロシア人」として、人のため自分のために、最大限の価値あることをしていくこと。そしてそれによって、自分の大事な一部分でもある日本とロシアの1つの共同の未来を提案し、創ること。 こんなことを実現するそしてそこでまず何から始めなければいけないのか?僕が出している答えは、 「日本内のロシアを顕在化させること」 です。 それについてはまた今度の記事にて執筆させていただきます。長文お読みいただきいつもありがとうございます<(__)>
3発目の投稿は、メンティより、ロシアのクリスマスについてです!! 皆さんはクリスマス、楽しく過ごしましたか?^^ 日本ではクリスマスになると街に綺麗なイルミネーションがかかり、カップルがその下を歩き、お互い打ち解け合う大事な一晩を過ごす。そしてまた、子供もサンタさんからプレゼントをもらうことを楽しみにする。 でもクリスマスは世界の他の国々でも同じ祝われ方をしているのでしょうか? アメリカでさえ、日本とはとても違っているといえるのではないでしょうか?とても家庭的な祝日になっています。 では、ロシアの「クリスマス」とは? このテーマについて話すときに2つの要素が欠かせません。 それは、 ・ロシアのクリスマスイヴは1月7日で、祝われ方が違う ・ロシアでは新年に「サンタ」が来る なぜこんなことになっているかというと、クリスマスはその源泉において宗教的な祭日だからなのです。 前者に関してなぜ日程が世界と違うかと良いますと、ロシアはキリスト正教圏だからなのです。中世にキリスト教が東西に分かれてから、お互いが使っているカレンダーの間にも13日のズレが出てきたのです。 そして正教圏のクリスマスには商業化された歴史はなく、今日までそのまま宗教的な祭日として生き残っているのです。でもロシアは基本的に新年明けてから14日までの間はずっとお祭り気分が続くので正教クリスマスを言い訳(笑)に飲んだり家族でパーティーをしたりする人はいますけどね。 そして、日本やアメリカでのクリスマスの役割はロシアではそのまま新年に移されているのです。青いサンタとその娘助手が子供にプレゼントを渡しにくる。その青いサンタは”Дед Мороз”(寒爺さん)と言います。そしてカップルや家族も新年をまさに「クリスマス的」な祝い方をするのです。 なぜそうなっているのか? それは、ソ連時代に政府が断固に宗教色のあるものを拒否していたからなのです。新しい国、社会を作るためにはレーニン曰く「大衆のアヘン」である宗教やそれをもとに権力を保っていた教会の影響力を下げなければいけませんでした。 19世紀後半からロシアにもヨーロッパのクリスマスの祝い方が浸透してきて同じ道をたどっていたわけなのですが、そこでロシア革命が起きるとその機能が全部そのまま新年に移され、宗教色を一切消されました。なんせよ祝い好きなロシア人からこんな素晴らしい祝日をとってしまうのはあまりにも強引なことでしょうから(笑) 宗教色の代わりにロシアの新年祝いに持ち込まれたのはロシアの童話や民族的な文化色(これは家庭内の祝い方にはないですが子供向けの新年パーティーの話です)で、とてもフェーリーテール的な、何か魔法がかったような雰囲気が漂っています。Сказка(スカーズカ)ですね ✨ でもはっきり言ってしまうと、ロシアでは「クリスマス」は12/31から1/14日までずっと、陽気に続きます。やはり休暇日数最多な国だなって感じがしますね^^ 一度ロシアに新年期に行ってみてのんびりと過ごしてみてはいかがでしょうか? クリスマスが終わっての一発目の投稿だったので、純粋にロシア事情を書いてみました! サハ共和国渡航後の報告会も、このように文化を伝えられるよう、精一杯頑張ります! ご支援よろしくお願いいたします!!!!!
これから渡航当日まで、宮代とメンティから、クラウドファンディングの進捗、プロジェクトの詳細、リターンの詳細など、お届けしていきます!! 今日は宮代です! (キャッチアップ画像は高校の文化祭ですね、一応モザイクかけておきました。笑) なぜ、サハ共和国に渡航するのか? そう聞かれたら答えは一つでして、オイミャコンに行きたいからです。笑 これはもう、行きたいから行くという、シンプルな答えで これじゃあ、伝えたいものも伝わらないので、 今回は「なぜ行きたくなったのか???」という過去を綴ります。 まだ、僕が高校生だった頃のはなし 僕は、湘南で育ちました。 場所は神奈川県茅ヶ崎市。 やんちゃするのが楽しかった時期、僕もそのひとりだったと思います。 しょーもない悪さして、楽しんでいた記憶が多々あります。 そんな、ヤンキーごっこをして、自分に優越感を覚える僕の目の前に、面白い人間があらわれました。 今でも仲がいい Aくんです。 彼は、ロシアの血が4分の1入っています クォーターってやつですね 僕が彼と出会ったのは、おそらく高校1年生 高校は違うのですが、同じ学年で、友人の紹介で出会いました もう未成年の頃の話なんて時効だと思いますので、ぶっちゃけで話しますね 友人の家で真夜中に宅飲みしてて、いやあ、初めて会ったその日は衝撃を受けました。 お酒ガン飲みしてたんすよ、あり得ない量。 高校生が、未成年でお酒飲んでてかっこいい!とかって、調子に乗って飲む量じゃないんですよ これが、日本人とロシア人の違いかって、格の違いを見せつけられた瞬間でした その日に意気投合して、だんだん2人で遊ぶ仲になったんですが、それからもヤバイんですよね。 真冬に公園でウォッカ飲みオール。 マジでつらかった記憶があります。。 ふつう高校生がしますか?笑 「ヒトラーに忠誠を誓っているなら、飲め」とか、意味分からないコールされましたからね笑 若かりし頃のノリだったんですが、そのときは最高に面白くて、いやあ、ロシアの文化で育っただけで、こんなにも世界の見え方が違うんだなぁと、純粋に感動する毎日でした それからも、(なぜか)真冬に公園に集まって、ウォッカやビールをグラスに注いで「乾杯!」と、2人で晩酌してバカみたいに語り合うという遊びをしていたある日 ロシアに激イカ ("激"がつくほどイカツイという言葉の略 僕らの造語) な場所があるから教える。 というAくん。 「どんな場所?」 もちろん僕は聞きました。 「マイナス71,2℃の中で、人が暮らし続けるオイミャコンってところ」 ここで初めて、オイミャコンを知ったのです。なんだよそこはと。。。。 あとは、本文にもあるように、そこの魅力を2人で調べて、バカみたいに笑い合う日々を通して、少しずつ、少しずつ、そこに行きたい!という思いが強くなっていったのでした・・・・・ 実は、こんな過去があるんです。 なので、今回のサハ共和国の渡航は、僕の過去の記憶を辿る旅でもあります。 あのころ妄想していた「もし現地に行けたら」が叶う瞬間が、今まさに近づいているからです。 正直、そこまで本気で行こうとは思ってませんでしたし いつか行ければいいなくらいに思っていました けど、それがメンティとの出会いという、たったひとつの縁によって ここまで実現に近づくなんて、と。 実は今でも、フワフワと夢みたいな感情が心にあります そして、渡航目的としては、Aくんに恩返しをしたいという思いも強いです。 現在、就職活動中のAくん。 大学当時は、函館のロシア極東大学へ入学し、別で行政書士の資格も取得しています。 今ではお互いの道を歩む僕とAくん。 彼との約束を果たすための旅でもあります。 いま、この文章を読んで、感動してくれてるかと思います。 待っててくれよ、Aくん。 俺はおまえが行けない分の感動を吸収して、必ず届けるからな。 本当の激激イカイカ (激イカという言葉では表せないくらいイカツイ事象を表す僕らの造語) を味わってくるよ。 無事帰ってきたら、あのころの青春を思い出しながら、また、スターリン公園 ( 僕らがいつも飲んでいた伝説の公園 本当の名前はぜんぜん違う )で晩酌しようぜ! 色んな世界を見せてくれて有難う。今度はおれが見せる番だ。 待っててね。 そんな個人的な思いが詰まった渡航。 もちろん、オイミャコンだけではなく、サハ共和国、ウラジオストク、ハバロフスクなど多くのロシアの魅力を味わえる機会でもあるので、存分に楽しんでこようと思います 以上、宮代から好き放題お届けさせて頂きました 明日はメンティが更新します!!!!!!