いつもお世話になっております。
今回はいつものように活動報告ではなく。普段大橋・吉次で考えているようなことを書いてみようと思います。
なぜ今福島か?
僕らの活動を広めれば広めるほど、「なんで今この時期、このタイミングに福島のことを作品にするの?」と興味を持って聞いてくださる方がいます。震災から8年もの歳月がたち日本は当時からいろいろ変わってしまったので、その質問はごもっともだと思います。そもそもこの8年間の間に、もっと早く取り組めたのかもしれません。しかし、僕らはいまが東日本大震災を取り扱った作品を制作するベストなタイミングだと思いました。僕らにとって、8年経ったいまも東日本大震災は当時から終わっていない地続きな問題だからです。震災を乗り越えて前に進みたい人。忘れ去りたいトラウマになってしまった人。まだ、家にすら帰れず問題の渦中にいる人。様々な人たち一人一人にそれぞれの震災があると思います。そのなかで、僕ら二人にとって東日本大震災は直接被災しなかったからこそ、とても気になり心の棘として残り続けました。いま僕らは東京で生活しています。東京で生活していると、何不自由なくインフラは整っているし、極端に言えば自分の生活だけを考えていれば生きていくことができます。その不自由のなさが逆に人を孤立させ記憶をどんどん突き放していってるのではないかと思います。僕らの扱おうとしている東日本大震災もそうですし、熊本の震災、先日の台風の影響の被害もどんどん日々に流され、人々の記憶から失われている気がするのです。僕らは東日本大震災やそれらの災害や事故について、当事者でいることはどこまでいってもできません。しかし、当事者じゃないからこそ、その問題に蓋をしたり記憶を風化させるのではなく、想像力をはたらかせて一緒に助け合っていく必要があると思うのです。そのために過去になりつつある東日本大震災について作品を作るのは今しかないと思い、僕らはチャレンジしています。
グレーという色もある
僕らは日々話している中で大事にしているキーワードがあります。それは「話を先延ばしにする。結論を一度保留する体力をつける」ということです。これも二人が日々生活していて、世の中は西洋的な二元論に染まりすぎていると感じることが最近多くなってきたからです。西洋的な二元論とはどういうことでしょうか? ここでいう二元論は物事を「yes か no 」「白か黒」「善か悪」など分類して答えをきっぱり出す考えのことを言います。西洋はキリストの教えを始め、このように物事を分類して考えてきました。これは、西洋美術がフレームという自然を切り取った形で描かれ続けてきたことからも推察されます。
しかし、日本は本来このように何かを分類して考えてきた民族ではないように思います。キリストの例を少し出したので、宗教の話をすると日本古来の宗教神道は八百万の神といって山の神や川の神、その土地の神などといろいろな神々がいます。わかりやすく言えばいっぱいいてごちゃ混ぜカオスokスタイルです。また、美術的な観点で語ると、東洋の絵画の中には絵巻物に書かれているものや、1枚の絵に時間的な連続性を書き込んだ絵が多く見られます。これは1つの視点を切り取る西洋のスタイルとは大きく異なります。物事を「分類」で捉える西洋に対しそのものの外側に含まれている時間や空間、物語などを含めた「関係性」で捉える日本(と東洋)の文化的な違いは大きいと思います。これはどちらが良いとか悪いとかではありません。双方のバランスが大事だと思います。
しかしここで僕らが問題視していることが2つあります。1つ目は近代化が始まってから、西洋の「分類で見る思考」が主流になってきているのではないか?(あくまで主観なのでそうじゃ無いかもしれませんが)2つ目はこの分類で考えるということに「生産性」や「コストを削減する」「効率」などを求め出しているのでは無いか? ということです。こちらの方が危機感を感じています。本来分類で見ることの利点1つは、真実にたどり着くということにあります。絵画で説明しますと。日本の絵巻物などはシーンが連続して描かれているため現在の位置を正確に描くには少し不向きです。また、版画や歌舞伎の書割などの絵も大胆な構図から様々な想像力を掻き立てるものの、写実という意味では少し不向きなのかもしれません。つまり、古来の西洋の人々は遠近法や明暗法などを駆使し、いかに真実を描けるかという技術を磨いてきた気がするのです。効率よく絵を描くためにキャンバスを用意し物事を仕分けし描いてきたわけじゃ無いはずです。
話がかなりそれてしまいました。僕らが何を語っていたかというと最近の世の中はすぐに答えを出そうとしすぎているのでは無いか? ということです。先日のあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」についてもそうですが、問題が起きるとすぐに良いか悪いかという議論をしたくなる。これは僕らにおいてもそうですが、賛成か反対かどちらかの立場につき、一方的に相手を叩きたくなる。そうではなく、もっと視野を広くもち物事を多角的な方向性から見て、それぞれの関係性の中から問題を解決していくことができないかと思うのです。これは東日本大震災においても当てはまると思います。復興に向けて意欲的な白の人や復興に対してはまだ気持ちがついていけない黒の人だけでなく、震災や復興に対してはっきりと自分の意見や立場を言えないままでいるグレーの人もいて良いはずです。大切なことは効率や生産性を追い求めるのではなく、みんなで時間や手間をかけて協力して考えていくことだと思います。
以上、二人でいつも話したりしていることを、今回はまとめてみました。
次回もぜひ読んで頂けたら幸いです!