クラファン日記⑩「 文化と芸術、そして父のこと...」
僕の父のことを書かせてください。
まずもって、これは彼をディスる(非尊敬する)ものではありません。どうかその事をまず最初にご理解ください。
僕の父は(低く見積もっても)僕の3倍は真面目な方です。
市役所に勤め、市議会議員を勤め、現在は監査役を勤めております。
仕事だけでなく地域貢献にも積極的で、消防団や教育員会、自治会、お祭りなどあらゆる地域活動に参加しています。
幼い頃の僕が入っていた囃子保存会では先生、少年野球チームでは監督をしていました。家の外でも中でも常に厳しく躾けられたと思います。
そんな彼ですが、
僕が18歳の時、大学進学をせずにダンスの道へ進むことには猛反対でした。
というか勘当同然(死語でしょうか)の仕打ちを受けました。
今でもよく覚えています。
「この国にダンサーという職業はない」
彼の強固たる言い分でした。
おそらく彼なりに調べたのだと思います。
当時、確定申告などする場合に認めてられている職業欄に「ダンサー」がなかったのでしょう。
もう一つ、これも印象的な言葉です。
「文化はわかるが、芸術は理解できない」
もともと田舎である僕の町ではお祭りが盛んです。
これは文化であり守るべきもの。日常生活に隣接し、社会生活に必要不可欠なもの。
一方で芸術は、一部の変わり者が己の自我を突き進み、他人の迷惑を顧みず、社会性とは程遠くなされるもの。
これが彼の芸術観だったのだと思います。
今回のプロジェクトは、こうした僕の父から受けた仕打ちへの回答と思っています。
これまで歩んできたダンスで得た現在の僕の芸術観は、彼との和解を求めるもに他ならないからです。
日本においての芸術と文化はそれほど離れたものではない。
これが僕の芸術観です。
そもそも、古く日本には芸術という観念は無かったのではないでしょうか。
明治以前の日本人の日常生活には、深い文化が根ざしていた。それは西洋でいうところの芸術のはるか先を行く奥深さがあった。
そう想像しています。
明治を越えて、いざ芸術という概念が流れ込んできた時に、芸術はそれができる芸術家や、それを扱える一部のお金持ちのためのものとして、日常と切り離されてしまった。それが現代まで続く芸術に対する違和感なのではないか?と考えています。
芸術は常に真摯で美しいことを求められます。
しかし、それは日本では古くから日常に求められてきた日本文化そのものではないだろうか。
過去と現在を振り返り、未来に想うことはそれほど高尚なことではなく、日々習慣として行うものだ、そう考えるのがの日本人という民族だったはずではないだろうか。
誰もが不安で困惑に満ちた時代だからこそ、もっと気軽に、胸のうちを話し合いたい。そのための芸術であり、そうした活動こそ文化の源であると想うのです。
話が大きくなりすぎた感はありますが、18歳から45歳、27年越しの父との対話がここに表現されています。父との対話であると同時に自己との対話でもあります。
プロジェクトを通じて、こうした追求ができるのもありがたい恩恵の一つだと感じています。
最後のもう一度繰り返します。
これは父をディスる(非尊敬する)ものではないことをご理解ください。
親の立場において子の幸せを思うのなら当然の仕打ちだったと思います。
10年前、娘が生まれて、彼に孫ができ、僕も父となったあたりから、すでに和解は成立しています。笑
二人の仲を見守りつずけてくれた母と姉にも感謝をしております。
この場を借りて、ありがとう。
さて、想いと願いが届くことを願っています。
みなさんのご支援、ご賛同をお待ちしております。
青木尚哉