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こんにちは!山谷の路上で「アートの寄せ場」を開催したい!

日本三大ドヤ街の一つ、山谷。多様で豊かな人間性あふれた人たちの集まるこの町で、町の人たちと一緒にそれぞれの感性を大切にした表現を持ち寄り、さまざまな違いや垣根を超えた出会いと交流を生み出すアートの寄せ場「バラエティロードSANYA2019」を開催します。

現在の支援総額

255,000

25%

目標金額は1,000,000円

支援者数

45

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/08/15に募集を開始し、 45人の支援により 255,000円の資金を集め、 2019/10/31に募集を終了しました

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こんにちは!山谷の路上で「アートの寄せ場」を開催したい!

現在の支援総額

255,000

25%達成

終了

目標金額1,000,000

支援者数45

このプロジェクトは、2019/08/15に募集を開始し、 45人の支援により 255,000円の資金を集め、 2019/10/31に募集を終了しました

日本三大ドヤ街の一つ、山谷。多様で豊かな人間性あふれた人たちの集まるこの町で、町の人たちと一緒にそれぞれの感性を大切にした表現を持ち寄り、さまざまな違いや垣根を超えた出会いと交流を生み出すアートの寄せ場「バラエティロードSANYA2019」を開催します。

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今回は、谷中のおかってのメンバーでもあり、アーティストとして活動している大西さんにお話を聞きました!毎年バラエティロードを盛り上げてくださる大西さんは、どんな思いでバラエティロードに関わっているのでしょうか?◆自己紹介をお願いします普段はダンスやパフォーマンスを、アーティストの活動としてやっています。ダンスと言っても、特定のテクニックを訓練してきているわけではなくて、「踊りというものが、どうやって生まれるのか」ということに興味を持っています。例えば今やっている活動には、子供創作教室や福祉施設との共同の活動がありますが、それぞれの相手との関わり合いの中で生まれてくる出来事を引き出してくるということを大事にしています。 今年のバラエティロードでは、『詩の朗読茶席「スパンキングキャンディー」』という文化出見世を考えました。◆バラエティロードとの関係 バラエティロードには、立ち上げの2015年から毎年関わっています。最初の年は、じんじんさんの野点が中心でした。次の年からは、まちの人や山友会の人たちと関わる中で感じた「路上でこんなことが起こったら面白そうだな」という予感を、野点の裾野に広げていく取り組みが、”バラエティロード”という呼び方で、始まりました。そのとき自分には、”路上カラオケ”というアイデアがありました。そこには、電気が通っていないマイクと、歌に合わせて即興で演奏ができる人がいて、あとはビール瓶の空き箱の上に板を乗せただけのステージを用意しました。◆何故、路上でカラオケを...? 山谷のまちと僕の最初の出会いは、山友会の油井さんにまちを案内してもらったときでした。油井さんが道ゆく先々で声をかけられていました。「今日どうしたの」とか、「いつもありがとう」とか。油井さんも僕に、「変わった人でしょ」とか、「面白い人なんだよ、ああ見えて」とか、道にいる人を紹介してくれました。でも、その人が何者であるかとか、名前がなんだとかとは言われなかったし、気にもならなかったんです。それがすごく面白いなと思いました。自分が、まちで見る人たちからの目線で「私が何者であるか」が問われずに声をかけられるというところに、人懐っこさや愉快な気分を感じました。思わずそっちの方へふらっと寄っていきたくなる”甘み”みたいなものがあることを感じました。同時に、何者であるか問われないということは、「お前何しに来たんだ」っていう、自分の立ち振る舞いや「人のなり」を見られている”厳しさ”・”渋さ”もありました。だから、自分が道に立とうとした時に、「嬉しいとか面白いとか、心が動いているってことでしか、道に立っちゃいけないな」と思いました。「バラエティロードは面白いんだ、ちょっと寄ってってよ」という姿勢で道に立ちたいからこそ、路上でカラオケしてみたいな、と思いました。道でカラオケしたらあのおじさんたち来るかな、なんて考えたりもして。名付けずに自分がどう道に立つか、妄想をしたときに僕の頭の中で膨らんでいった風景が、”路上カラオケ”という形になりました。◆人の視線から感じる”渋さ”や”甘み”、という言葉から、文化出見世のフレーバーティーを連想したのですが、何か関係しているんですか。 関係大有りです。(笑)  何度かバラエティロードをやりながら、僕が山友会の人たちに、より踏み込んで、お話しながら感じたことなんですけれど。おじさんたちと喋ってると、その人の人生がギュッと詰まった格言みたいなのを、ボソっと言ったりするんです。例えば、「人生70年、自由行動で生きてきたから」、とかね。そういう、頭だけじゃ追いつけない重みのある言葉を、向こうが投げかけてきているな、ということにすごく興味を持ちました。渋みや苦味、甘みが両立する味わいを持っていて、言葉の世界にしかない魅力がじわっと時間をかけて身体に浸み込む感じでした。「うっ、重っ」とか、「何?このザワザワ感」とか、言葉にはできないけれど心では感じること、身体の中に湧き起こってしまったことは、  「踊り」としか捉えられないような事柄だと思っています。そういうことが、この人たちとの間にきっとある、というところに、すごく心惹かれました。おじさんたちの言葉の背景や周りに広がる風景を、身体の中の出来事として味わうものにしたいなと考えて、この出見世をやることにしました。おじさんたちが言葉につけた味をフレーバーティーにして飲みながら、おじさんたちが言葉を口ずさんだ時の、身体からの言葉の出方を”フリ”としてお客さんに写していくものです。味とフリの両方が合わさったとき、自分と山友会ではない第三者の身体の間で、おじさんたちの言葉が見てみたかった踊りの風景になるかもしれない、という予感がありました。◆文化出見世やリターンの品のフレーバーティーは、どんな味わいですか? 意外と、シンプルな味です。...って言ったら魅力がないかもしれませんが... おじさんの中に、差し歯の人がいたんです。差し歯の粘着剤の味が混ざっちゃうから、あんまり複雑な味って分かんないんだよね、って言われたこともありました。でも、それはすごく重要だと思っています。ある意味、その人の身体に刻まれた履歴が味覚を通して現れているのだから、よっぽど複雑で、色んな味が織り込まれてた方がいいんじゃないかと思っていた。でも、おじさんたちと作業をしたら、シンプルで鋭くて、重みがあり、四の五の言わせない味わいの中に、爽やかさもある…そんな、お茶ができました。自分が最初道端で声をかけられた時に感じた、風通しの良さみたいなものに似ている気がします。それだけじゃなくて、名言と共に醸し出させるものだから、フレーバーティーの方をぐちゃぐちゃいじらないで、名言の持っているフレーバーとさらにブレンドすることに、情熱を注ぎました。◆バラエティロードの名付け親は大西さんだということですが、何故バラエティロードと名付けたのですか? 名付けたつもりはないんだけどね。「バラエティロード」というのは、企画が始まる前におかってのメンバーそれぞれが持っていた、バラエティロードに対する予感が折り重なる部分で、出てきた言葉に過ぎなくて。たまたまタイトルの素材になっただけで、”名付け”じゃないんです。これは、バラエティロードにとってはすごい大事だと思っています。 最初の山谷の話に戻るけど、「あなた何者?どこから来たの?何してる人?」って、おじさんたちは絶対聞かない。そこに、お互いに踏み込んじゃいけないという敬意みたいなものがあると思う。例えば、あるときこんなことも言ってて。「ひとりひとり、しょってる荷物が違うからさ」って。距離感みたいなものを、お互いに意識しているし、そこがキモだと思う。何者かって決めた瞬間にそこの文脈が決まって、バラエティじゃなくなっちゃう。何者かわかんないもの同士が、それぞれの言いたいこと言ってるからこそ様々な声かけが突発的に起こるんですよね。 普通は、「自分が何者か」っていう看板を建てたら、社会に対してそこが正面になります。でも、山谷では看板が無いから、おじさんが思いもよらないところから、「うっ」とか言ってつついてくる。そういうスリルや、何者でもないままでいられるような風通しのよさや、つつかれるってこともあるし、励まされることもあるし、ちょっと戒められることもある。でも、一定の距離もあって、 そこは優しさなんだと思います。向こうにそういうつもりがあるかは分からないけど、こっちはそういう気持ちになれる。叩かれるけど、甘みがあるっていうことです。今改めて、道で何が起こったらいいか言葉にすると、『スパンキングキャンディー』になるんです。◆今年のバラエティロードに特に期待していることはなんですか?今年は、色んな文化出見世が出るといいなと思ってます。道で何が行われているかっていうのが、一つの視界に入りきらないほど。色んな「スパンキングキャンディー」が行われているっていうことも含まれると思うし、その場その場での偶然みたいなこともあるかもしれない。そういう偶然とかスパンキングとかを引き起こすには、何か仕掛けなきゃいけないし、そこに何か魅力がなきゃいけないと思う。今回こちらからの仕掛けは、今までの倍くらい多くて、ちいさなものから大きなものまでいろいろあるけど、それはすごくいいなと思っています。それが楽しみにしてることです。去年色々やってみたけど、「もっとだな」って思った。だから今回、小さなものも、雑多にやるっていう。細かいものも含めて、『雑多にやる』っていうことができたらいいんじゃないかなと思っています。◆クラウドファンディングで支援してくださっている方、もしくは、これから支援しようかどうか迷っている方に対してのメッセージをお願いします。 支援していただいたお金は、野点だったり、文化出見世だったりという、名付けられない魅力の予感みたいなものや、社会的にこれがいいと価値づけられていないことに使われるから、支援してくださる方にとって分かりやすい意味での「見返り」は、ないかもと思うんです。僕はね(笑) 。ただそのお金によって、雑多な魅力の予感が、文化出見世という形やある仕掛けとして現れて、スパンキングキャンディーみたいな出来事が起こる風景をつくることには、責任を持ちます。立派なモニュメントが建つわけではないので、この日が終わったら瞬く間に消えてしまうものかもしれないけど、その日一瞬路上に立ち上がるかもしれないスパンキングキャンディーを... むしろ、支援者のほうがスパンキングしていくつもりで、支援してほしいなぁと思います。◆支援する方がスパンキングキャンディーを受けることはないのですか?それがリターンです。それはもちろん、楽しみにしてもらっていいです。


私たちが山谷に出会うきっかけとなった方、山友会の油井さんに、バラエティロードの可能性や期待することについて伺いました!(最終回)◆これからの「バラエティロード」の可能性多様なつながりが生まれたり、地域に寛容な時間が流れたり、文化が生まれたりするバラエティロードの取り組みが、地域の人々にとって必要とされ、愛されるものになっていったらいいな、という気持ちがあります。そこに至るまでには、本当に長い道のりなのかもしれないけれども、地道に続けていけたらいいですよね。5年間続けてきて、私たちもいろいろな出会いや気付きがありました。これからも、新しい出会いや気付きが訪れることを楽しみにしています。何にせよ、じんじんさんがいないとできない、谷中のおかってさんがいないとできない、山友会がいないとできない、ということじゃなくて、そのどこかが欠けていたとしても、この取り組みの意義を共有してくれた、この地域の人たちが「そろそろ今年もやろうよ」なんて言って自然と集まって、「今年はどんなことをしようか」って言って、そこで普段はあまり関わりがなかった人同士が、関係を深めることできたり、お互いの理解を深めたりできてくるといいなと思っています。「継続は力なり」ですね。◆ここまで続けてみて見えたことはありますか?そうですね…。何かが劇的に変わったということはないんですけどね(笑)。でも、山友会のおじさんたちが、「今年もじんじんさん来んだろ」「おかっての人たち来んだろ」って言って、楽しみにしてるんだなっていうのはよくわかりますね。年に一度の楽しみがある、また会いたいと思える人がいるって、いいですよね。私は、バラエディロードの企画段階から関わってくれている山友会のおじさんたちの人生を、確実に豊かなものにしてくれていると思っています。文化出見世を通して、初めて出会った人や、普段は話すこともない人とつながりができたり、自分の企画に対して良いも悪いも評価されて、自信を感じたり、そうでなかったり、というのは、山友会だけの空間ではできないことですしね。それと、バラエディロードでの空間をとおして山友会のおじさんたちに生まれた地域の人同士つながりが、お互いを支え合う、身近にいる孤立して辛い想いをしている人に手を差し伸べられるような力に発展していったらいいなとも思っています。山友会の活動は、もはや、手伝ってくれるおじさん達の存在なくしては成り立ちません。山友会を訪れたホームレス状態にある方たちなど社会から孤立し辛い想いをした人たちをスタッフ、ボランティアさんと一緒になって受け入れ、手を差し伸べようと、それぞれに得手不得手なことがあるにせよ、自分なりにできることをしてくれています。それが、山友会に懐の深い雰囲気をつくり出してくれているんです。そうしたことが、山友会というコミュニティにだけで完結してしまうんじゃなく、ご近所さんの間とか、同じアパートやドヤの人同士とか、日常の暮らしに密接した場や関係性の中にも広まっていけたらいいなと思っているんですが、そのためには日常には起きえない出会いのきっかけが必要だと思うんですよね。そのきっかけを感じさせるバラエディロードでの景色は、そんなことも考えさせてくれます。◆今年のバラエティロードは?毎年のこの話題が出るんですけど、一緒にやってくれるおじさん達って「今年はこうしてやるぞ!」っていうのが、あんまりないじゃないですか(笑)。毎年毎年、何か変化があったり、想定外のことが起きたりしても、それはそれとして受け入れてくれていると感じてます。私もおじさん達に対して「今年はこうなってくれ!」みたいな気持ちはあんまりなくて。おじさん達に、どのような出会いがあって、どのように交流が生まれるのか。そして、それがそれぞれのおじさん達にとってどのようなことを感じさせるのだろうか、先々どのような意味を持ってくるのだろうか、ということを楽しみにしている。そんな感じです。というのも、スタッフが「今年はこうしようよ」って言ってしまうとね…。普段から、手伝ってくれるおじさん達とはなるべく対等な関係として一緒にやっていきたいなという気持ちはあるんですけど、彼らからすれば「助けてくれる存在」であったり、「助けてくれた存在」であったりする感覚は、どうしてもぬぐい切れないと思うので、「スタッフの人がそういうなら、そうしようかな。そうするのがいいのかな」って考えちゃうと思うんですよね。それを、このバラエティロードの場面まで持ち込みたくないなという気持ちがあって。だから、「今年もじんじんさんが来るって!」「おかっての人たちが来るって!」という程度におじさん達には声をかけて、集まってもらうようにしています。じんじんさんやおかっての皆さんと「今年はどうしよっか」と妄想を繰り広げ、期待を膨らませて準備しているのをときには温かく見守り、ときには影ながら応援しつつ、どんなことが起きるんだろうと楽しみにする立場でいたいなって思っています。◆支援してくださる方々に一言!私はパフォーマーやアーティストとか、アートのことを専門にしている人間ではないから、この取り組みにどれほどのアート的な価値があるのかはわからないんですけど、バラエティロードっていろいろな表現が展示されたり、発表されたりしているけれど、美術館なんかの展示みたいに展示そのものが鑑賞されることを期待された規則正しい空間ではないじゃないですか。有象無象な表現をきっかけに、いろいろな人が路上に集まるから、いろいろなことが起きる。でも、不思議と包容力のあるやさしい雰囲気というか、ちょっとした摩擦や不協和音みたいのがありはするんだけども、そんなこともかき消してしまうような寛容な空気が流れている。その雰囲気や時間を共有した人は何となくわかるのかもしれないけれども、まず、こんなにもわかりづらいようなことに共感してくれたことに本当に感謝しています。共感してくださった方々とも一緒に、このバラエティロードがつくりあげているんだなって思っています。それと、こういうわかりづらいけども大切にしたいなっていうことに共感してくれる人がいるって、本当に素晴らしいことだと思うんですよね。世の中捨てたもんじゃないなっていうか、孤立した人々とつながりや居場所をつくっていくという目に見えづらいものを追求している私たちからすると、この取り組みに共感してご支援してくださった皆さんの存在が励みになります。まして、閉塞感の漂う世の中ですからね…、ご支援くださった皆さんの存在は、現代社会にとっての希望だと思います。本当に、本当に、ご支援ありがとうございます!


私たちが山谷に出会うきっかけとなった方、山友会の油井さんにお話を聞いてきました!(全2回)毎年私たちに協力してくださっている油井さんですが、どんな思いでバラエティロードに関わってくださってるのでしょうか?◆山友会とは?山谷地域で、社会的に孤立していることなどで生活困窮状態にある人たちの支援活動を行っています。具体的には、無料診療所の運営、生活相談、地域生活の見守り、炊き出し・アウトリーチ(路上生活をされている方への訪問活動)、事務所へ来所した方への昼食の提供、ケア付き宿泊施設の運営を行っています。また、支援を通して関わりをもった方たちが、地域の中で孤立せずに自分の存在を認められる居場所と、自身の生きがいとなるような社会的な役割を手にすることを目的に、主体的かつ持続的に参加できる居場所づくりや生きがいづくりをサポートする「居場所・生きがいづくりプロジェクト」を行っています。さらに、活動を通して関わりのあった方の多くは身寄りがなく、いわゆる無縁仏となってしまうことから、亡くなった後もつながりが途絶えないようにと、関わりがあった方のためのお墓を運営しています。ほかにも、「山谷・アート・プロジェクト」という、山谷や路上で暮らしている方が、自身の身の回りのこと、そして暮らしている街を写真で記録する取り組みを行っています。この取り組みは、アート(写真)という手法で自身を表現し、変わりゆく東京、そして山谷という街を記録して残し、幅広い世代に伝えることを目的にしています。そして、プロジェクトに参加している方たちは、写真というアート活動を通して、社会とのつながりを感じることができます。このように、路上生活をされている方など社会的に孤立した方たちに幅広い支援活動を通して、つながりとコミュニティをつくっています。◆山友会からみた「バラエティロード」はどういう場?谷中のおかっての方からじんじんさんの野点を山谷でやりたいと相談されたことがきっかけで、この企画が始まったんですよね。最初は、「うまくいくのかな…」と心配だったり、僕自身もアートに詳しいわけではないので「これって何か意味があるのかな…」と思っていたりしました。でも、じんじんさんと会ったり、谷中のおかっての皆さんとも会って話を聞いていくうちに「面白そうだな」と感じるようになりました。他人に危害を与えるわけでもないですし(笑)。はじめて山谷で野点をやったときは、山友会の活動を手伝ってくれるおじさん※に声をかけたら何人かが手伝ってくれました。ほかにも「ちょっと顔出してみようかな」という方もいました。※おじさん…山友会を訪れる年配の路上生活者の方や元ホームレスの方のことを、山友会では親しみを込めて「おじさん」と呼んでいる。本番の日にも、じんじんさんが路肩でドラァグクイーンの恰好をして、お茶をたてたり、お茶碗を焼いてたりするのを通りがかりに見かけた知り合いのおじさんも「何やってるの?」と、顔を出してくれました。それに、手伝ってくれたおじさんたちが、お茶碗を洗ったりとか、交通整理をしたりとか、それぞれに役割をもって活躍している姿を見て、普段山友会で見ている姿とはまた別の生き生きした表情があるのに気付きました。こうして普段とは違った形で活躍できる場や、野点に集まった人たちとつながれる場があるのはいいなと思って、翌年からは「バラエティロード山谷」として、一緒に企画段階から関わるようになりました。谷中のおかってさんやじんじんさんという、この町の日常にいない人がやってきて、一緒にこのイベントを行うことで、普段は起きないことが起きたり、つながりを持つ機会がない人がつながったりすることがあると思っています。そして、それをこの町の人と一緒にやるおことができたら、きっと面白いだろうなと思ったんです。山友会の活動に協力してくれているおじさんたちと一緒にやることで、その友達や知り合いのおじさんたちも、バラエティロードに訪れてくれるかもしれないし、ひょっとすると一緒に手伝ってくれるのかもしれない。それに、バラエティロードは山友会と関係のある人たちだけが集まるわけじゃないですよね。僕らが中心になってやってしまうと、山友会と関係のあるおじさんたち、つまりホームレス状態にある方やそれを経験してきた方、そして山友会の活動に協力してくれるボランティアさんや、ホームレス問題の最中におかれた方やそれに関心のある方の密度が高い集まりになると思うんですよね。それはそれで、意味があることかもしれないけれど、山友会の日常の連続でしかないし、語弊があるかもしれないけれど、何だか閉ざされてしまって、多様なつながりが生まれない気がして。じんじんさん、谷中のおかっての人たちという非日常の存在が中心となってくれることで、その関係の人たちも集まる、そして、バラエティロードに何気なく立ち寄った地域の方たちも集まることで、新しい交流が生まれる。そうなったらいいなって思って。それで、実際に野点やバラエティロードをやってみたら、子供連れの人が来てくれて、その子供をおじさんがあやしてたり、文化出見世に人形づくりや自作の射的を出展したおじさんが子供と一緒に遊んでたり。子供でなくとも、おじさん達が自分たちで考えて準備して出展したものに対して「これ何?」「どうやって作ったの?」というように関心を持ってくれた人と会話がはじまるですよね。こうして、おじさんたちの人間関係に彩りが加えられることが起きているのかなと思います。◆油井さんから見た「バラエディロード」の魅力は?多くの人たちにとっては、家族という「血縁」のほかに、同じ地域に住んでいることをきっかけにしたつながりである「地縁」、同じ仕事をしている、同じ職場であることをきっかけにしたつながりである「社縁」というのが、日常の暮らしのあるつながりやコミュニティなのだと思いますが、バラエディロードをきっかけに生まれるつながりは、そのどれにも拠らないつながり方ですよね。血縁も、地縁も、社縁も自分の存在が証明されるような強力な帰属意識を与えてくれたり、ときにその縁をきっかけにしたつながりの中で支え合う力を発動させてくれたりしますが、その反面、何かの事情で誰かを傷つけてしまったり、排除してしまったりする力が働いてしまうことや、時には、人によっては窮屈に、憂鬱に感じてしまうようなしがらみが存在することもあります。だからこそ、日常に密接に存在する血縁や地縁、社縁に捉われない多様なつながりの形があることが大切だと思っています。とくに、地域で孤立しがちな方は、血縁、地縁、社縁からさまざまな事情で遠ざかってしまった方が多いわけじゃないですか。そうした方にとっては、人とのつながりを感じられるきっかけになるのかもしれないし、それをきっかけに何かのコミュニティに参加できて、困ったときに誰かに助けを求めることができるようになるのかもしれない。そう考えると、社会から孤立した方々のことを考える私たちにとっても、バラエディロードの生み出す多様なつながりの形は、本当に魅力的だし、可能性を感じますよね。私たちも、血縁、地縁、社縁という代表的なつながりの形やコミュニティにとらわれないつながりやコミュニティをつくろうと取り組んでいますが、活動上、「困ったときに支援をする」ことがそのきっかけになることが多いことから逃れるのは難しくなってしまいます。それはそれで、社会から孤立した方々にとってのつながりやコミュニティのあり方の一つではあるんでしょうし、誰かとの関係において「支援する/支援される」関係が瞬間的に訪れるのは悪いことではないとは思うんですけどね。でも、どうしても同じような苦労を経験した方々が多いという、同質性が強いコミュニティになりがちだったり、それがその人の日常の中でのウェイトが大きかったりするのは、「誰かに助けてもらっている」という負い目のようなものを日常的に意識させてしまって、あまり健全ではないと思うんですよね。その意味で、孤立した状況から支援につながった方にとっても、この負い目から少しでも自由になるきっかけになるのかもしれないなと思っています。


バラエティロードの目玉である「野点」を行うアーティスト、きむらとしろうじんじんさんのインタビュー。最終回の記事をお届けします。じんじんさんにとっての「バラエティロード」の魅力や可能性、今回の野点への意気込み(?)などについて聞きました!◆じんじんさんにとっての「バラエティロード」まず、バラエティロードという題名が、僕は好きですね。これは、おかっての人たちの大発明だと、僕は思ってます。ネーミング自体が、意味をあらわしている気がして。どこがすごいと思ってるかというと…路上のことを名付けるけど、何も約束してないところ?(笑)「いろいろですわ~」としか言ってないですよね。いろいろなことがある路上に、「いろいろな路上ですねん」としか名前を付けてない。だから、ほぼ意味のないネーミングなんですけど。「なんとか屋台村」でもないし、「なんとか市」でもないし、「なんとかフリーマーケット」でもない。バラエティな路上に、「バラエティーロード」ってつけるっていう。僕の勝手な解釈なんですけど、簡単に価値を担保してたまるか、担保しなくても魅力はあるのだ、という姿勢が表れてて、そんなネーミングが大好きです。あと、路上にいることに慣れてる人とか、路上で何かするのが好きな人ばっかり集まってる場って、意外とないんですよ。今までいろんな現場やってきて、まちに出てみませんかとかいろんな人に呼び掛けるんだけど、ちょっと僕が無理くり引っ張ってってる感じになる。僕以外のスタッフは身構えて出ざるを得ないことが多い。でも、谷中のおかっての人とか、山友会のおっちゃんたちとかって、そこで何かをやっているのが普通なんですよね。路上にいるということ、あるいはそこで何かが起こっているということ、あるいはそこで何かするということ自体にすごく距離が近い人が多くて、そういう人たちがバラバラっと路上に散らばってる現場っていうのは、ありそうでないものだと思ってます。妙にリラックスしてる人が多いんですよね。っていうのが、最大の特徴かつ、バラエティロードならではのすごいとこ、魅力だなぁ、と。それが、稀有な存在だなぁと思います。それが稀有な存在になっちゃっていることが、ある種嘆かわしい。そんなことはもうちょっとたくさんあってもいいはずだと思っている。そういうことがあったほうがまちは魅力的だと思ってるし、そういうことが豊かだと、本当は言いたいです。◆これからの「バラエティロード」の可能性バラエティロードはこの先もずーっと続いていったらええなと思います。それは野点がなくても、ですよ。僕はもちろん野点やりたいんですけど、野点があってもなくても、ああいう場みたいなのが増えたらいいと思うし、ずーっと続いてったらえぇなと思う。(社会的な)意義や意味や効果が担保されなくても、人が大けがするような事故が起こらんかったら、道端で楽しんでる人がいる風景のほうがええやん、そういう場が増えたらええやんっていう。比較的そんなに大仰な話じゃなくて、それくらいの話だと思うんですけど、それが最大の目標ですね。◆今年の「野点」は?変わりないです。強いて言うなら僕がさらに歳を取ったというくらいで。お客さんと交わす会話の内容は変わってるかもしれない。歳とった分体の不調を訴えたりするかもしれないですけど、それも含めて見に来てくださると嬉しいかな。どんだけ老けてるかを確認しに来てください。(笑)◆支援してくださる方々に一言!何かはっきりとしたお返しができるわけではないんですけれども、「バラエティロードSANYA」の風景自体が魅力的だと僕は思ってるので、その風景が存在するということを応援してもらえると、僕はすごく嬉しい。それが魅力的だと思ってくれるとすごく嬉しいし、クラウドファンディングで支援してくださった方にはぜひ現場に来てもらいたい。だからといって特別なおまけがついてくるわけではないが。で、つまらんと思ったらちゃんとその場で怒ってほしいですね。つまらんか、魅力的か、ちゃんと見に来てほしいです。そのときつまらんて言われたらどうするか分からないですけどね。すいませんって言って謝るだけなのかもしれない。これではメッセージにならないか…(笑)でも、もしこれに興味をもって少しでも支援してくれる人がいたら、それに対して僕が言えるのは来てほしい。支援してしかも現場いかなあかんのかみたいな話になるんやけど、他にお返しのしようもなくて。こういう風景がこの世に存在しててもいいなぁ、魅力的だなぁと思ってもらえたら、それが僕にできる唯一のお返し。ぜひ来て、お茶碗も作ってってください。お代は別でいただきます(笑)お茶碗代。ひどいなあ…(笑)でも、他に言えることがない。(笑)来世でいいことありますよとかそんなこと言えないし。ほんとはいいたいんですけど。とにかく、見に来てほしいですね。


バラエティロードの目玉である「野点」を行うアーティスト、きむらとしろうじんじんさんのインタビュー。第2回目(全3回)の記事をお届けします。各地で野点を行ってきた経験から「路上」や「まち」への思いを語ってくれています。◆じんじんさんにとっての「路上」と「山谷」僕が言う「路上」って言うのは、ただ単に車が通行できるとか、そういう意味ではなくて、なんとなく人がうろうろしてられる、とか、日向ぼっこしてる人がいるとか、そういう意味です。人が道端でうろうろできるのが当然やと僕は思ってます。そういう場所で「すんませーん」言うてちゃんと挨拶して、「絶対事故起こしませんので」って言って、きちんとお断りできるのであれば、本当はどこだって野点やりたいんですよ。それは山谷に限らず、どこででもやりたいし、どこででもできるはずとどっかで思ってます。ただ、できる場所がどんどん減っていってるっていう印象があるんですよ。何某かの”(社会的な)意義”とか、”経済的な効果”とかが保証されないと路上に物を置いてはいけない、それが路上にある(社会的に)正しい理由を説明できないと路上に居れないという方角に、物事を眺めてる側も、やろうとする側も、それを見て受け取る側も、どんどん収縮していってるような感覚を、野点を20年以上やってきてすごく感じてます。僕は、人の気配が、ちゃんと路肩ににじみ出ている、そういうまちに魅力を感じます。そういうまちのほうが信用できると思っている。それは、良い悪いの判断ではないんですよね。人間がそこに暮らしているってことは、いろんなことがそこにある。でも、それを、隠して目に見えないようにすることが安全だったり安心だったりするような方角に、今まちが動いて行ってると思う。だけど、おそらく山谷にはいろんな暮らしとか、その”いろんな”ってものが目に見えるんだろう、っていう予感があったと思います。野点って、路肩にいてうっかり立ち寄ってもらってなんぼ、なんですよね。うっかり立ち寄ってくれる人の中には、野点のことが好きで最初から目指してきてくれる人もいれば、偶然見かけて、「何やってんの?」って疑問だけ抱えて声かけに来てくれる人もいれば、「普段機嫌よう過ごしてる場所やのに、うっとおしいブツがあるから一言文句言ったろ」思って声かけにくる人もいれば、スタッフの楽しげな様子に誘われてついふらふらっと寄ってくる人もいれば、一瞬だけ写真撮って立ち去る人もいれば・・・。そんなふうに、通りがかりの人がいろんな感覚で寄ってくれてなんぼなんですよ。でもそれは、ほんとは当然起こるはず、なんですよね。いろんな人が生活してて、その道が自分にとって当たり前の場所として行き来してたら、当然起こることだと思う。だからそういう偶然が起こらないようにまちが整理されていくことに対して、僕はめちゃくちゃ腹が立ってるんですよ。安全や、という言葉で、シュッとなんとなく納得されてしまうような…怪しげな人がいないほうがいいとか、見えないほうがいいとか…その「怪しげ」っていうのも漠然としたイメージですよね。そういうのがすごく嫌で。でも山谷で、っていう話を聞いたときに、漠然としたイメージではあるんですけど、山谷では、文字通り”いろんな”人に立ち寄ってもらえる予感というか、確信というかがあったんです。◆山谷で野点をやってみてやっぱり居心地がよかった。(笑)それは野点の現場だけではなくて、自分自身の身体感覚としてもですね。野点の期間中は、山谷周辺に滞在させてもらうんですけど、銭湯行って、安くておいしいごはん屋さんに行ってご飯食って、毎日過ごしてます。やってみて印象が変わった、というよりは、あぁやっぱりええとこやな~と思いました。また“ええとこ”なんて言うと平板すぎるかもしれないけど、僕はやっぱり“ええとこ”やと思います。で、“そのええと”こっていうのは、“正しい”まちだとか、手放しで喜べるような状況のことではなくて、自分の身体感覚とか、当然あるべき状況があるという意味での"ええ"とこ。信用できる場所やなぁという感覚は、僕にとっては大きいんです。この「信用できる」っていう表現は、トラブルがない、ということを言いたいのではなく、そこで起こるトラブルも含めて、という意味です。何かをその土地に着地させたり、土地に根付かせたりしようとしたりしたときに、「やめてくれや」っていう人もいれば楽しむ人もいる。路上で起きる出来事に対しての、そこにいる人たちの感情の動きがちゃんと見える、そういう街のことを信用している。だから、山谷のことはすごく信用できるまちだと思っていたし、野点をやってから今でも信用できるまちだなと思ってます。やっぱり、野点をやってると「なんや~!」って言って寄ってくる人もいるわけですよ。(笑)その「なんや~!」が信用できる。手放しに誉めてもらえることが信用できる、ということでは絶対ないです。「なんや~!」が“信用できる「なんや~!」”であるということが、魅力的なのではないかな。